慶長8年(1603年)2月12日は徳川家康が征夷大将軍に任じられた日。
このときから始まった江戸時代は一般的に【太平】とされ、治世期間がかなり長いことが特徴ですよね。
ただし、その終わりは1867年の大政奉還とするか、1868年の戊辰戦争スタート(~1869年)とするか、見解が別れたりして、本稿では大政奉還までとしておきましょう。
つまり1603年から1867年で約265年間――。
今回はこの江戸時代全体を一気に読んでみたいと思います!
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【江戸時代の区分①~⑤】
江戸時代をスッキリ整理――。
と言っても265年を一気に駆け抜けるには、やっぱり長い。
まずは区分から決めておきます。
【江戸時代の区分】
①家康~家光時代(江戸時代草創期)
②家綱~家継時代(江戸時代安定期)
③吉宗~家治時代(江戸時代変革期)
④家斉~家慶時代(江戸時代衰退期)
⑤家定~慶喜時代(江戸時代幕末)
今回は、上記の区分けに従い、注目度の高い【政治的な流れ】を中心に追っていきますね。
①家康~家光時代(草創期)
関ヶ原の戦いが1600年に勃発。
東軍の徳川家康が勝利を収め、慶長八年(1603年)に家康自身が征夷大将軍になりました。
※以下は徳川家康の関連記事となります
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1614~1615年大坂の陣を知っている我々からしますと、豊臣家を潰す気は満々にも見えます。
しかし、拠点を江戸にし、自らが関白ではなく征夷大将軍を選んでいることからして、家康は「豊臣家を公家として残す」腹積もりだった可能性もありそうです。
当時、豊臣家の当主である豊臣秀頼は10歳の少年でした。公家の当主ならば幼くてもさほど問題はありません。
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この時点で豊臣家の血を引く成人した男性はいなかったのですから、秀頼の命や立場が内部的な理由で脅かされるおそれはほとんどなかったといえます。
また、秀吉生前に
「豊臣秀頼と、家康の孫娘・千姫を結婚させて、両家の橋渡しとする」
という約束があり、家康はそれを忠実に守っています。
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「死人に口なし」
家康がそう考えていたなら、秀頼と千姫を結婚させる理由はありません。
それでも約束を守ったのは、やはり「武力を持たなければ、豊臣家を残してもいい」と考えていたからなのでは……という気がします。
なんせ将軍になって間もない慶長十年(1605年)には、嫡男・徳川秀忠へ将軍職を継承。
豊臣家を滅ぼす気マンマンなら、もっと早い時期にそうしていたのではないでしょうか。
受験では事実だけ押さえておけばOKとされますが、こうした流れを考えておくことが記憶にも繋がると思います。
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江戸幕府の許可を得て領地を治めている
豊臣家滅亡の前。
徳川との間で、複数回の折衝が行われました。
そのために苦労をしたのが片桐且元という武将ですね。
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しかし最終的に和解へ至らず、大坂冬の陣(1614年)・大坂夏の陣(1615年)で豊臣家は血縁ごと滅亡。
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唯一、秀頼と側室の娘が千姫の養女になること、すぐに出家することを条件に助命されました。
彼女は天秀尼となり、長じて鎌倉・東慶寺の住職として勤行に励んでいます。
豊臣家の始末と並行して、家康は関ヶ原の際に西軍に属した大名の多くを改易し、約630万石もの領地を浮かせました。
これを徳川家の家臣や親族、そして東軍に所属した大名へ分配し、日本のほとんどを手中に収めます。
ここでミソになるのが、この厳然たる事実です。
◆江戸時代の大名は、幕府(家康)の許可を得て領地を治めている!
では室町時代以前は? というとこれが違いました。
「先祖代々住んできた土地だから、この土地の支配権は俺達のものだ」という考えが主流。
国衆・地侍にとっては当たり前の考え方ですが、中央集権化を妨げる原因ともなります。
平安時代までの朝廷は、地方統治にあまり興味がありませんでした。
また、鎌倉・室町幕府は、集権化を徹底できず、政治基盤の安定さを欠く一面がありました。
初代将軍である家康がそこを克服。
これにより江戸幕府は安定したとも言えるでしょう。
もちろん、他にも家臣の多さや忠誠心、家臣団を含めた兵力と領地=兵糧の多さなども理由ですが、他の幕府になくて江戸幕府の特徴を一つ挙げるとしたら、ここかもしれません。
また、家康は「五十の手習い」ならぬ「生涯学習」をモットーにした人物でもありました。
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学業の面でも、最晩年まで商人や僧侶、学者、外国人などあらゆる層から知識を得て、新しい政治形態を作ろうとしています。
外交方針はどうなった?鎖国は?
外交問題も、家康の時代には方向性が大体決まっていました。
大坂の役の前までは、ルソン(フィリピン)やカンボジアなどと親善・通商を図っています。
また、秀吉時代に悪化した朝鮮との関係回復にも心を砕き、対馬の宗氏を窓口としました。
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そのおかげもあって、江戸時代を通じ、朝鮮からの使者である朝鮮通信使が、新将軍就任祝いなどの際にやってきています。
ヨーロッパ=キリスト教国については、慎重な方針を取りました。
家康の外交顧問はイギリス人ウィリアム・アダムス。
そのため、当時イギリスと、東南アジア貿易を巡ってライバル関係にあったオランダや、カトリックの布教を強く望むスペインに対しては警戒心を抱いていました。
スペインについては、伊達政宗が家康から許可を得て、自分の家臣である支倉常長を正使とした慶長遣欧使節を派遣しています。
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しかし、その間に日本ではキリスト教がご法度となり、またスペインも、実はアルマダの海戦(1588年)以降はの国力下火になっていたことが判明、通商が持たれることはありません。
戦国時代から付き合いの深いポルトガルについては、生糸輸入で日本が大損しないよう【糸割符制度】で統制を実施しました。
そして、慶長十七年(1612年)の岡本大八事件以降、キリスト教は全面禁止という方針が確定(鎖国については段階的に進む)。
同十九年には高山右近・内藤(小西)如安ら三百人前後のキリシタンがルソンへ追放されました。
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この措置によって職を失ったキリシタン浪人が、大坂の役で豊臣家方についたことも、後に徳川がキリスト教を危険視する一因になったと思われます。
明については、家康の時代には国交回復が困難と考えられました。
そこで長崎での貿易を商人たちに許可し、民間でのお付き合いのみ。
琉球は島津氏に、蝦夷地(アイヌ)は松前氏を窓口としています。
どちらも決して穏やかな方法だけではありませんでしたが……。
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