慶長遣欧使節

復元されたサン・ファン・バウティスタ号と支倉常長/wikipediaより引用

伊達家

なぜ政宗は慶長遣欧使節を派遣した? キリスト教禁止後に帰国した常長の立場は?

キリシタン大名――。

言わずもがなキリスト教信者の大名ですが、そのメンツには、2016年に列福された高山右近重友はじめ、大友宗麟有馬晴信、あるいは蒲生氏郷など、名だたるメンバーが列挙されます。

そこで一つ質問です。

このキリシタンの中に伊達政宗を入れるのはありでしょうか、それともナシでしょうか?

政宗と愛姫(正室)の間には娘の五郎八姫がおり、彼女にはキリシタン説があります。

だからと言って政宗までキリシタンの可能性を論じるのはいささか乱暴気味……と言われそうですが、なんせ政宗には支倉常長をスペイン王およびローマ教皇に謁見させた実績があります。

そうです。慶長18年(1613年)9月15日に【慶長遣欧使節】を派遣しているわけですね。

キリスト教に対して思いがないハズはなく、むしろ大いに関心があったと考える方が自然でしょう。

そこで今回は、「当時のキリシタン保護政策」なども含めて、政宗が「慶長遣欧使節団を送った真の理由」を考察してみたいと思います。

※以下は支倉常長の関連記事となります

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カトリックの苦境とスペインの斜陽

慶長遣欧使節団についての本題に入る前に、当時のスペインの状況をおさらいしたいと思います。

戦国時代に海を越えて日本までやって来た、イエズス会の宣教師たち。

日本からすればいきなりやって来たように思えますが、彼らにも理由はありました。

当時、ヨーロッパでは宗教改革の後、カトリックと新興勢力プロテスタントが競い合い、宗教を原因とした戦争や虐殺は起こるわ、修道院が破壊されて財産が没収されるわ、ともかく大変な状況でした。

メキメキと力を伸ばすプロテスタントに対し、このままでは劣勢だ……と落ち込むカトリック。

そんな彼らが目を付けたのが「グローバル展開」でした。

彼らの主要目的地は、人口の多い中国「明」――。

しかし、これがラクではありません。当時の明国は周辺海域で海賊が跋扈しており、非常に危険な状態だったのです。

となると、明での布教は厳しい。

「しゃあない! 明国の東には日本という国があって、適度に文明化されてるらしいで」

ということを宣教師たちは耳にし、「それじゃあ、日本って場所にも行ってみようか」となったわけです。

教皇グレゴリオ13世は、イエズス会に理解を示し、日本布教の独占権を付与。

本格的な布教が始まりました。

こうした宣教師の活動を「日本を植民地支配するための尖兵だった」とか「日本人を奴隷することが目的だった」とする説もありますが、そうした説はいささかスペインやカトリック勢力を過大評価しているように思われます。

以下のような理由からです。

1588年、スペインの無敵艦隊がイングランド(イギリス)・ネーデルランド(オランダ)に大敗。

この歴史的敗北は、斜陽の国スペインと、プロテスタント諸国勃興を強く印象づけました。

敗北でスペインが無力化したわけではありませんが、昔日の勢いは徐々に削がれていきます。

そんな中で、極東の国に軍事力を派遣する余力があったとは思えないのです。

 


フランシスコ会のソテロと出会う

こうしてザビエルら宣教師は日本で布教を始めますと、その道は非常に険しいものでした。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布。

徳川家康は秀吉の政策を継承しする一方で、貿易のためにキリシタンを黙認し続けました。

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家康が本格的にキリシタンを禁じるのは、慶長17年(1612年)のことです。

伊達政宗とカトリックの出会いは、家康によるキリシタン禁制前夜のことでした。

慶長14年(1609年)、スペイン出身のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロと出会った政宗は、キリシタンに関心を寄せます。

政宗は家臣や領民に受洗を奨励し、仙台には教会が建てられました。

ローマ・クイリナーレ宮殿のフレスコ画に描かれた支倉常長(左)とルイス・ソテロ(右)・より引用

ここで注目したいのが、ソテロはイエズス会ではなく、フランシスコ会所属であるという点です。

日本への布教は教皇の命令によってイエズス会のみに許されていたのですが、フランシスコ会はそれを破り布教を行っていました。

さらに1608年、教皇パウルス5世はイエズス会が独占していた日本布教を緩和。

慶長遣欧使節の背後には、イエズス会とフランシスコ会の対立も存在したのでした。

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