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武田・上杉家 その日、歴史が動いた 徳川家

浄光院(保科正之の母)が辿った数奇な一生 信玄の娘に育てられし徳川の隠し子が名君へ

更新日:

 

徳川家随一の善人・保科正之
当コーナーでは何度か登場していますが、その地味……いやいや堅実さ故に、有能さがあまり知られていない人物の一人です。
そして、有名人のお母さんというと賢母か男勝りかと相場が決まっている(?)もの。では正之の母親はどんな人だったのでしょうか。

寛永十二年(1635年)9月17日はそのお母さん・浄光院が亡くなった日ということで、本日は彼女の生涯を探ってみたいと思います。俗名は静(しず)で”お静の方”とも呼ばれますね。

保科正之/Wikipediaより引用

 

秀忠がピリピリしていた時期に出会った女性?

案の定というかなんというか、身分の低い方だったのであまりはっきりした記録は残っておりません。ただ、察するにその名の通り静かな人だったようです。

慶長年間(だいたい豊臣秀頼の元服から豊臣家滅亡まで)に見初められたとされているので、まさに秀忠がピリピリしていた時期に出会った女性。これは完全にワタクシの想像ですが、多分現在で言うところの”癒し系”だったのではないでしょうか。

秀忠の正室・お江与(江・ごう)は皆さんご存知の通り苛烈な性格ですし、関が原の遅参や将軍職継承、子供達とのアレコレなどストレスてんこもりというか「もうやめて!秀忠のMPはゼロよ!」な頃ですから、お静の方のように優しい女性にビビビと来てしまうのも無理はありません。

彼女は秀忠の乳母である大姥局(おおうばのつぼね)に仕えていたそうですので、多分乳母に何か相談事でもしに行ったときに秀忠と出会ったのでしょうね。乳母というと今では子守をする人のイメージしかありませんが、かつては教育係や相談役も兼ねていましたし。

というか秀忠の周りって穏やかな人が少なすぎて他に愚痴れる相手もいな(ry

 

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信玄の娘が家康の孫を育てるという不思議な縁

そして成るべくして成ったというか、お静の方は懐妊します。

が、当時は正室が認めなければ側室を増やせないことになっていましたので、そんなことを言い出せない秀忠は彼女を正式に妻として迎えることができません。
ただし、そのまま放置しておくといつバレるかわからんということで、大姥局が手を回して武田信玄の次女である見性院という女性のところへかくまいます。

また、かつて織田信忠との遠距離恋愛を貫き、信忠の死後出家していた松姫(信松院)も味方になってくれて、この子を育ててくれ、後の名君・保科正之になっていくわけです。

こういう連係プレーができるあたり、お江与のアレっぷりは当時からかなりのものと思われていたんでしょうね。はっきりした史料はないそうですが。

ちなみに見性院の住まいは江戸城北の丸だったそうなので、いつバレてもおかしくない状況。それでも大丈夫だったって、どんだけキツイ緘口令やねん。

余談ですが、かつて三方ヶ原でボッコボコにやられた信玄の娘が自分の孫を育ててくれたと知ったら、家康はどんな顔をしたでしょう。ちょっと見てみたい。

 

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高遠藩主を経て会津、将軍の後見役に

その後、正之を表向き信濃高遠藩主・保科正光の子として扱うことになったため、お静の方も一緒に高遠へ。

彼女は18年後に同地で亡くなったため一度長遠寺(現・長野県伊那市)に葬られたようですが、後に正之が会津藩主になった際、会津の浄光寺(現・福島県会津若松市)に改葬されます。母の戒名に合わせてお寺の名前を変えたそうで、それは親孝行なのかお寺への横暴なのかゲフンゲフン。

ややこしいことに本人の信仰が日蓮宗だったので、さらに久遠寺(現・山梨県身延町)でも改葬。つまり菩提寺が三つあるということになりますが、生前はともかく死後は身分ある扱いをされているんですね。

特に久遠寺の碑には「孝子会津従四位上左近衛権少将源朝臣正之奉仕」と書かれており、正之が母親を大切に思っていたこと、死後はきちんと扱いたいと考えたことがわかります。

正之がこの位についたのは、母親が亡くなってから十年以上後のことなので、多分「母上、私はこんなに重大なお役目を任せていただけるようになりましたよ」と伝えたかったのでしょう。

自ら”孝子”(=孝行息子)なんてつけるといかにもあざとい感じがしますが、正之の場合あまりそういう感じはしませんね。母子間のエピソードは特にないようですけども、目立ったトラブルが起きていないところを見ると、高遠では普通の親子として暮らせていたのでしょう。

そう考えると、将軍の側室としての身分は手に入らなくても、お静の方としては幸せだったかもしれません。

長月 七紀・記

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参考:浄光院(保科正之生母)/Wikipedia 今日は何の日?徒然日記 浄光寺 http://plaza.rakuten.co.jp/machi19minobu/diary/201301250004/

 




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