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その日、歴史が動いた 江戸時代 前田家

加賀百万石を大飛躍させた5代目前田綱紀の出来杉君ぶり

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「江戸時代の大名家はいろいろと大変でした(特にお財布が)」という話はこれまでにもたびたびしてきましたが、中には豊かになった藩もありました。
日本全国貧乏になってたら国が持たなかったでしょうしね。
本日はその代名詞ともいえそうな、とある大藩のお話です。

享保九年(1724年)5月9日、加賀藩5代藩主・前田綱紀(つなのり)が亡くなりました。

将軍でいうと、徳川家光から徳川吉宗の時代に生きていた人です。途中に在位数年のしょうぐんがいるとはいえ、結構な長さですよね。
生まれが寛永二十年(1643年)ですから、享年は81歳。現代でも長寿の域に入るくらいですから、当時はもっとめでたいことでした。
が、綱紀の人生は最初からうまくいっていたわけではありません。
どんな一生を送った人だったのか、さっそく見ていきましょう。
綱紀が生まれたとき、前田家では上を下への大騒ぎになりました。

 

待望の男子として祝福されて

何でかというと、長い間男子が生まれなかったので、まさに「待望の嫡男」だったのです。父・光高(4代)と祖父の利常(3代)は大いに喜び、綱紀誕生直後の連歌会でも喜びの歌を詠んでいたとか。
さらに光高については「綱紀誕生直後に参勤交代で地元に戻った際、120里(約468km)を7日で踏破した」とまでいわれています。
一日あたり約67km……あのー、中国大返しのときの秀吉とか、2代将軍・秀忠が大坂冬の陣で爆走したときの2~3倍早いんですけど、これ盛ってますよね……?
早馬のように馬を乗り捨て&乗り継いだとしても夜は走れませんし、籠でも同じですし、まさか不眠不休で7日間歩き続けたわけでもないでしょうし……どういうことだってばよ。
現代人からすると「親バカ・孫バカ早すぎw」とも言いたくなりますが、大名家にとって跡継ぎはまさに死活問題。上記の通り、当時は武断政治真っ盛りな家光の治世だったので、嫡子ナシ=改易の可能性が非常に高かったのです。
外様大名最大の勢力であるとはいえ、前田家も安心してはいられませんでした。というかデカイ藩なら分割してしまえばいいだけの話ですし、もし綱紀が生まれなかったらそうなっていた可能性もあるでしょう。

そんなわけで真綿で包んで胴上げするような祝賀ムードだった加賀藩でしたが、綱紀3歳のとき、4代目の父が31歳の若さで亡くなるという不幸にも見舞われました。息子にテンション上げすぎて血圧まで上がったとかそんなバカな。
光高は日頃から力自慢だったらしいので、おそらく筋骨たくましい人だったことでしょう。老中を招いた茶会の席で急死したらしいのですが、解せない話です。老中「に」招かれてであれば毒殺の可能性も高そうですけれど、そうでもないですし。解せぬ。

とはいえ嫡男がいて、さらに隠居である利常がいたので、家光からは「じゃあじーさんが孫を指導してやれよ」という命令が出ました。おかげで加賀藩は改易されることなく、綱紀と共に利常の元で何とかやっていくことになります。

 

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戦国最後の武将と呼ばれる祖父に帝王教育

わざと鼻毛を伸ばしたという武者・前田利常(富永商太・絵)

わざと鼻毛を伸ばしたという武者・前田利常(富永商太・絵)

利常は利家の子供ですから、戦国武将といえるギリギリの世代でした。そのため綱紀にも武道を奨励しましたが、藩主としての能力を養うため、他の藩で「名君」と呼ばれていた人物と孫を引き合わせています。
仙台藩の2代目・伊達忠宗や、岡山藩の初代・池田光政などが綱紀のお手本として選ばれました。他の客が来たときにも綱紀を隣室に待機させ、話を聞くように言いつけていたということですから、書物よりも他人の実体験から学ばせたかったのでしょうね。

そうしてじーちゃんに立派に育てられた綱紀は、21歳の時江戸城で元服を果たし、25歳で正室に保科正之の娘をもらって順調に藩主としての地位を固めていきます。
この正室とは15歳離れていましたが仲は良かったようで、結婚から8年後に彼女が亡くなった後、新たに正式な妻を迎えることはなかったそうです。
また、利常が亡くなった後は舅である正之を政治の模範として藩政に励みました。

 

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生活保護・図書館を整備する名君に

農業方面のさまざまな制度や土地を整備したりいろいろやっていますが、特徴的なものが二つあります。
一つは飢饉の際に作った「御小屋」という施設です。
生活に困っていた人々に米を支給したり、病人のための医者を配置していたところで、今で言えば生活保護制度にあたるでしょうか。
綱紀はこうした救民制度を以前から考えていたようですが、平時に設けるには費用がかかりすぎるということで家老たちから反対されていたとか。そりゃ、タダでご飯が食べられて病気になったときも見てもらえるとなれば、タカりに来る不届き者も予測できたでしょうしね。
飢饉のおかげで望み通りになったと見ると皮肉ですけども、庶民が助かったのだから良しとするべきでしょうか。
もう一つは、学問の奨励です。
綱紀自身が学問好きでもあり、ジャンルにこだわらず武芸や建築、文芸などありとあらゆる学問を奨励したといわれています。これについて正之には「儒学以外はちょっと」と言われたようだが気にしなかったようですね。これ江戸の出来杉君・正之が相手だったから穏便に済んだのでしょうけども、もし別の人だったら大ゲンカになってたんじゃないでしょうか。
度胸の良さはジーチャンの薫陶ですかね。
書物奉行という役職を設けて古書の収集・保存をさせ、学者を多く招聘した上、自らも百科事典の編纂に携わったという身の入れようです。
そのため藩士たちも学問や芸術を好む気風となり、新井白石から「天下の書府(図書館)」と賞されたとか。
自分の手元に集めるだけでなく、他家の文書保存にも資金や技術者を提供しており、心底学問や書物が好きだったのだろうと思われます。

また、自領内で長寿の人には褒美として米を与えたり、刑罰を緩やかにしたりと、江戸時代というより現代に近い感覚の持ち主だったようです。
将軍が家光から家綱に変わった後も武断政治が続いていましたが、綱紀の影響もあって全国的に文治政治へと変わっていく流れができました。
これならジーチャンもトーチャンも草葉の影で胸を張っていたことでしょう。
それでいて政治的なバランス感覚もしっかり持っていました。
大藩であるが故に幕府ににらまれやすいため、蓄財はしないという方針にしていたようで、改築や調度品などに惜しみなくお金を使っています。
もしかすると、上記の学問奨励もわざと散財するという面があったのかもしれませんね。

 

さらにはダンスもお上手!開発も順調に130万石突破

あまりにもデキ過ぎてそろそろ悪いところも見つけたくなってくるところですが、残念ながら(?)さらに良いところがあります。
綱紀は舞の名手でもあり、プロの能楽師にも引けを取らなかったというのです。将軍の前で披露したこともあるそうなので、若干誇張はあるにしろ相当の腕だったことは間違いないでしょう。
そうした際の衣装にもお金を使っていたでしょうね。

ここまで「○○にお金を使いました」という話が出れば、お次は「そのせいで財政破綻しました」と続くのがお約束ですけども、加賀藩では真逆のミラクルが起きます。綱吉の時代に入って、加賀藩は名実共に100万石を達成しているのです。
御小屋も変わらず続けていて、「加賀にはホームレスがいない。素晴らしい政治だ」とこれまた絶賛されました。
しかも綱紀の後の時代にも石高は増え続け、幕末には130万石超になっていたとか。どこまで儲けるねんうまやらしい。
そんな感じで家を安全な位置に落ち着かせ、民からも慕われた利常でしたが、ほぼ生涯現役の藩主でもありました。亡くなる前年まで現役の藩主だったのです。
上記の通り、当時の状況で80歳超というのはかなりの長寿です。幼少期については祖父の後見もあったとはいえ、約80年間藩主の座にあったというのは稀な例でしょう。
この辺の安心感がより一層庶民にも藩士たちにも慕われる理由だったかもしれませんね。
これは私見ですが、藩主が積極的にお金を使ったおかげで領内でもお金が回るようになり、その結果藩ごと豊かになったのではないでしょうか。
現在の富裕層や政治家先生にもそうしてもらいたいものですねえ。溜め込んだままあの世に行ってしまわれると、税金でがっつり持っていかれてしまいますし。
それなら自分のためでも人のためでも家族のためでもいいから、ポーンと使って世の中に回る分を増やしてほしいものです。

長月 七紀・記

参考:前田綱紀(wikipedia)

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前田綱紀が図書などを充実させた結果⇒「丹下典膳や長月隼人がいかに優れた剣の使い手であろうと加賀藩に仕官できないたった一つの理由」

 




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