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その日、歴史が動いた 中南米

アステカ帝国のあとに白人のメキシコ帝国があった!名君マクシミリアーノはなぜ処刑されたのか

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もう何度目になるかわからないくらい同じ話で恐縮ですが、王侯貴族に生まれてしまうと、本人の意思とはまったく関係ないところでデカすぎる責任が生じてしまうものです。
それどころか、人の意見を取り入れていたにもかかわらず、いつの間にか悲劇の渦中にいることも珍しくありません。
本日はその一例であり、日本の明治維新とほぼ同時期に起きた、あまりにも酷い革命の話です。

1867年(慶応三年)の6月19日は、メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世が処刑された日です。

皇帝の処刑というだけで穏やかではありませんが、この人の生涯をたどってみると、「ナゼこんな目に遭わなければならなかったのか」と静かな怒りがこみあげてきます。
のっけから私見丸出しでスイマセン(´・ω・`) でもホントそうなんですよ……。

トップ画像は、世界史の教科書や資料集に出てくるマネの絵「皇帝マキシミリアンの処刑」ですが撃っているのはフランス兵です。フランス人に殺されたのではないのですが、ここにはふかーいわけがあります。最後にその理由がわかります。

ちなみに生まれてからメキシコ皇帝になるまでの間は「マクシミリアン」なんですが、この名前だと別人が大量に出てくるので、この記事では「マクシミリアーノ」で統一させていただきます。悪しからずご了承ください。

理不尽ながら男前の人生でした(Wikipediaより)

オーストリア帝国のハプスブルク家に生まれて

マクシミリアーノは1832年、オーストリアの皇帝家であるハプスブルク家に生まれました。
皇族の一員として、小さいときからかなりの時間を勉強に費やしたとされています。

地歴や法律はもちろん、語学、理科、軍事、フェンシング、外交まで幅広く学習。一口に語学といっても、東はハンガリーやスラブ語から西はスペイン語まで、6カ国語も学んでいます。
やっぱり小さいうちからだと頭に入りやすいんですかね。

時間にして7歳のときに週33時間、17歳では55時間も勉強していたそうです。一コマ50分でないことを考えると、単純に現在の日本の高校生の倍は授業を受けていたことになりますね。よくこれで反発しなかったものです。

性格的には活動的・勝ち気・奔放・快活といったところで、物静かなタイプだった兄のフランツ・ヨーゼフとは次第にそりが合わなくなりましたが、後々の手紙からすると、兄弟として親愛の念は持ち続けていたようです。
1848年の革命で伯父のフェルディナント1世が退位し、フランツ・ヨーゼフがオーストリア皇帝になってからの反乱鎮圧には同行していますし、大ゲンカをしたという記録もないようですし。

 

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市民の自由を愛しすぎて「王様」をくびに

1854年、22歳の時にはオーストリア海軍の司令官になっています。
現在のオーストリアは完全な内陸国ですが、当時は現在よりももっと広大な領地を持っており、海にも接していたので海軍があったのです。
この時期にマクシミリアーノが戦艦に強い興味を示したため、オーストリアは海軍にも力を入れていくことになりました。

1857年、25歳のときに当時オーストリア領だったロンバルド=ヴェネト王国(現在のイタリア北東部。ヴェネツィア~ミラノ一帯)の副王に任じられています。

また、この年にはベルギー王女シャルロッテと結婚しました。二人はミラノで政務と新婚生活を送りましたが、イタリアの人々に自治を認めるなど、自由主義者の見本のようなやり方をしていたため、お兄さんに「お前クビ(`・ω・´)」と言われてしまいます。
数々の王国を束ねるオーストリア帝国としては、自治を認める=自由主義的な考えは都合が悪く、そのままにしておくわけにいかなかったのです。

ミラマーレ城(WIkipediaより)

マクシミリアーノは大人しく兄の命に従い、イタリア北東部にあるトリエステのミラマーレ城で謹慎生活に入りました。
ここは海を見渡せる岬の根元に建っている比較的小さな城。現在でも観光名所になっている綺麗なところで、日本人の旅行記でもよく出てきますので、ご存知の方もいらっしゃるでしょうか。
一方、中央アメリカ・メキシコでは、フランスなどヨーロッパ諸国の干渉が始まっていました。
「メキシコって国は知ってるけど、何でここで出てくるの?」と思われた方が大多数だと思いますので、例によってテキトーにまとめておきましょう。

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ごたごたのメキシコの統治者にフランスからヘッドハンティング

メキシコというところは、紀元前からオルメカ文明という独自の文明が生まれており、いわゆる「先進地域」のひとつでした。12世紀ごろにはアステカ帝国が築かれ、南北アメリカ大陸の中でも確固とした国ができています。
しかし、大航海時代が始まってスペインがアメリカ大陸へ進出する頃になると、アステカ帝国が滅ぼされてスペインの植民地になりました。
その後18世紀にフランス革命やアメリカ独立戦争の流れを受けて、「俺らもスペインから独立するんだ!」という動きが起こり、19世紀初頭に独立戦争が起こります。この頃にはクリオーリョと呼ばれる「植民地生まれの白人」もまた、本国に反感を持っていたため、大きな原動力となりました。
せめて同じ民族の中でくらい仲良くしなよ(´・ω・`)……と言いたいところですが、露骨に差別されていたのでムカつくのも仕方ありません。

そしてクリオーリョの中からメキシコ皇帝が即位し、メキシコ帝国として独立しました。
が、すぐに帝政が廃止されてメキシコ合衆国になり、さらにそれも崩れて共和国になったりと、政治的に安定しない時代が続きます。
その一方でアメリカと現在のテキサス州を巡って戦争をしているのですから、団結できるのか・できないのかどっちかにしろとツッコミたくなってくるところです。
これを米墨戦争といい、メキシコが負けてテキサスだけでなくカリフォルニアまで失ってしまいました。
この間メキシコはヨーロッパ諸国からかなりの借金をしていたのですが、新しく大統領になったベニート・フアレスが「もうヨーロッパと関わりたくないから金返しません!!」(超訳)という爆弾発言をします。
当然ヨーロッパでは「フアレス殴ろうぜ!!」(超訳)という話になり、特に債権額が大きかったフランスが「よろしい、ならば戦争だ」とメキシコへの出兵を決めました。イギリスやスペインも協力しています。

ヨーロッパ連合軍は熱帯気候やゲリラ戦により苦戦を強いられ、イギリス軍・スペイン軍はそれぞれ講和を結んで引き上げました。
が、ときのフランス皇帝・ナポレオン3世は「フアレスブッコロ!!」という態度を変えず、首都・メキシコシティを占領するまで戦争をやめませんでした。フランス兵カワイソス。

そしてナポレオン3世は、もうこのような手間をかけないため、そしてヨーロッパで急速に力をつけてきたプロイセンと対抗するため、メキシコに傀儡政府を作ろうと考えます。頭がいいんだか悪いんだかよくわからないですよねこの人。
そこでそれなりに血筋のいい人を探した結果、白羽の矢が立ったのがマクシミリアーノでした。ようやく話がつながりましたね。
マクシミリアーノにとってはまさに振ってわいたような話でしたから、当初は消極的だったそうです。しかし、かねてから植物学に関心が強かったため、新大陸の生態系に惹かれ、さらに「落ち着くまではフランス軍が駐屯しますので」とまでいわれてしまったため、ようやく引き受けて海を渡り、メキシコ皇帝・マクシミリアーノ1世として即位しました。
この裏で、オーストリア皇帝家の一員としての権利は喪失することになったのですが、それを知らされたのは後のことだったそうです。ひでえ。

マクシミリアーノ1世(フランツ・ヴィンターハルター画、1864年、Wikipediaより)

人身売買の禁止など善政をしたのにフランスからはしごを外されて

慣れない気候の中で苦労も多かったと思われますが、マクシミリアーノは即位早々に、労働時間の制限や児童労働・体罰・人身売買の禁止を言い渡しています。また、一定額以上の農民の借金を帳消しにしたり、庶民のための政策を行いました。
これは、当時のメキシコの農民や貧困層で、借金のカタに人身売買を選ぶということが多かったからだそうで。
皇后となったシャルロッテもこれに同意し、貧しい人々のために富裕層から資金を集めるパーティーを開いたことがあるとか。現代風に言えばチャリティーイベントですかね。
が、そもそも縁もゆかりもないどころか、民族すら全く違う皇帝がそうそう受け入れられるわけはありません。
上記のようなマクシミリアーノの努力を認めてくれるメキシコ人もいたのですが、やはり多数派なのは皇帝反対派=革命軍でした。
ついでに、このゴタゴタの間に南北戦争を終えたアメリカが「もうヨーロッパとうちら(アメリカ大陸)は関わりあうのやめようぜ!」と言い出します。いわゆる「モンロー主義」です。これを理由として、アメリカは革命軍に肩入れしました。
……イギリスから来て、先住民を虐殺してまで居付いた人たちが何を言ってるんでしょうね。独立戦争が1775年ですので、世代交代はしているとはいえジョークにもなりません。誰か「お前は何を言っているんだ」の画像ください。

ここで最悪なことに、マクシミリアーノをメキシコに放り込んだフランスが「俺ら帰るわ」と言い出しました。上記の通り、アメリカがモンロー主義に基づいて「これ以上俺らにちょっかい出すんなら、アンタらとやり合ってもいいんだけど?」と言ってきたからです。

何も知らないマクシミリアーノは困惑するばかり。彼の分までブチギレたのは、皇后シャルロッテでした。彼女は海を渡ってナポレオン3世に直談判しましたが、まともに取り合ってすらくれません。ローマ教皇や他の国もあたってみたものの、どれもうまくいきませんでした。
怒りのあまりかんしゃく玉を爆発させ続けるシャルロッテを扱いかねて、ローマ教皇は彼女の兄であるベルギー王子フィリップに彼女を引き取らせます。
フィリップも久々に会った妹の変わりように驚き、精神科医に診せました。そこで「もうダメです」(超訳)という診断が出たため、やむなくかつて暮らしていたミラマーレ城にシャルロッテを幽閉し、世間には死んだものとして発表します。
このため、マクシミリアーノも妻が旅先で亡くなったと思い込んでいたそうです。
その頃、メキシコではマクシミリアーノが8000人ほどの兵を率いて戦っていましたが、衆寡敵せず敗北。反対派に捕まってしまい、帝位を剥奪された上で銃殺刑が決まってしまいました。

経緯が経緯なので、この決定にはヨーロッパ中から非難の声が上がります。著名人ではヴィクトル・ユゴー(「レ・ミゼラブル」の作者)や、イタリア統一の英雄であるジュゼッペ・ガリバルディなどがマクシミリアーノの助命嘆願に動いていました。もちろん、兄のフランツ・ヨーゼフ1世も革命軍に交渉しています。
また、アメリカも「ヨーロッパと関わるのはいただけないけど、マクシミリアーノ個人は悪くないんだから殺さなくてもよくね?」という方針だったそうです。……すいませんもう一回「お前は(ry」の画像ください。

 

お前が言うな

妻の写真を見て「最後に見たのはお前の姿だったよと伝えてくれ」

結局どれも革命軍には聞き入れられず、マクシミリアーノの処刑は決行されてしまうのですが……。
処刑の直前、マクシミリアーノは「ハプスブルク家の一員として、堂々たる死に様を見せてやろう」としていたことが複数の逸話で伝えられています。
兄であるオーストリア皇帝への手紙の中で「兄上とハプスブルク家の繁栄を祈りつつ、私は旅立ちます」と書いていたこと。
処刑の日の朝、妻の写真が入った懐中時計にキスを落とし、「これを妻へ。そして、私がこの世で最後に見たのは妻の姿だった、と伝えてください」と言い残したこと。
「母が私の死に顔を見られるように、顔は撃たないでくれ」と言って、処刑人の兵士にお金を渡したこと。
処刑の際、目隠しを拒否したこと。

彼個人には何も責任がないというのに、よくこうまで潔く死ねたものですね……いかん目頭が。
彼の死後、当然のことながらフランスではマクシミリアーノを見殺しにしたも同然のナポレオン3世に対し、「あの皇帝サイテー!!」という世論が爆発しました。

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「皇帝マキシミリアンの処刑」エドゥアール・マネ(Wikipediaより)

実際のメキシコ革命軍による処刑。一番右がマクシミリアーノ(Wikipediaより)

世界史の教科書や資料集でよく出てくる「皇帝マキシミリアンの処刑」(エドゥアール・マネ作)という絵で、処刑人の服装がフランス軍のものになっているのは、そういった強烈な風刺が表されているからです。
実際には、上記の通りフランス軍は撤退していましたので、マクシミリアーノを処刑したのはメキシコの革命軍でした。もちろんマネもそれを知っていたので、試作ではメキシコ軍そのままで描いています。
それをわざわざもう一度、しかも服装を変えてまで描いたのですから、かなり強烈な批判ですよね。
直接会っていない人ですらそのように思わせたマクシミリアーノは、せめて別の刑になっていたら、戦争に負けていなければ、そもそもメキシコ皇帝を引き受けなかったら……と、いくつもの「IF」を考えたくなってしまう人の一人ではないでしょうか。

長月 七紀・記

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参考:マクシミリアーノ(wikipedia)
皇帝マキシミリアンの処刑(wikipedia)




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