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その日、歴史が動いた 欧州

そしてポルトガルの黄金時代は始まった……香辛料と国の浮沈を賭けヴェネツィアに挑んだディーウ沖海戦

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誰でも一生に一度くらいは、「一山当てる」夢を見ますよね。
宝くじ発売のたびに長蛇の列ができるのも、夢を見ている人がいかに多いかということの証左でしょう。

しかし、これが国規模の話となれば、事態は遥かに切実です。お偉いさんだけでなく、文字通り国まるごとの命運がかかっていますから。
本日はそうした「伸るか反るか」のかかったある戦争のお話です。

1509年(日本では戦国時代・永正六年) 2月3日は、ディーウ沖海戦が起きた日です。
一言でまとめると、ポルトガルとヴェネツィア共和国の商売を巡る争いでした。

 

海から直接インドへ行けるんじゃね?

当時、ヴェネツィアはインド方面との交易で香辛料を手に入れ、それをヨーロッパ諸国へ高値で売ることによってガッポガッポ儲けていました。ヨーロッパからインドや東南アジアに行くには、地中海と中東付近を通るしかないと考えられていたからです。
その出入り口であるヴェネツィアが、あれやこれやの手段で儲けようとするのは必然でした。

ところが、船乗りの間で信じられていた「外海の一番端に行くと、船ごと燃え尽きてしまう」などの迷信がエンリケ航海王子(過去記事:エンリケ航海王子の冒険 こうしてポルトガル躍進の礎は作られた【その日、歴史が動いた】)らによって否定されると、ポルトガルでは「もしかして、海からインドへ直接行けるんじゃね? そしたらヴェネツィアに高い金払わなくてもよくなるんじゃね!?」(超訳)と考えられるようになっていきます。
そしてヴァスコ・ダ・ガマらによってアフリカ大陸の最南端・喜望峰が発見されると、インドへ直接行く航路も夢ではなくなりました。

当然、ヴェネツィアにとっては面白くありません。下手をすれば、金づr……収入源がガクッと目減りしてしまいます。
しかしノリにノッているポルトガルと正面切って戦うのは不利、と考えたヴェネツィアは、味方を求めてあたりを見回しました。
すると、ちょうど地中海のお向かいに、(ヴェネツィアにとって都合の)いい感じにポルトガル相手で困っている国があったのです。

 

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ヴェネツィアはマムルーク朝と手を組んだ

それは現在のエジプトやシリアなどを治めていた、マムルーク朝でした。
この国が「ポルトガルだかななんだか知らないけど、ウチのシマで荒稼ぎしようとはいい度胸じゃねえか! 土地も物もやらねーよ!」(超訳)と考えていることを知ったヴェネツィアは、「関税安くしてくれたら、そっちについてもいいよ」と交渉を行います。
これが見事に成功。マムルーク朝が助けを求めていたグジャラート・スルターン朝(現在のインド北西部)という国との連合軍のような形ができました。

この二国は両方ともイスラム国家でした。が、神の教えよりお金が大事なヴェネツィアは、「こまけえこたあいいんだよ」とばかりに気にしません。
ヴェネツィアの商業主義ぶりというか合理主義というか、まあいろいろと見え隠れしますね。500kmちょっとしか離れてないのに、神の御心はヴェネツィアには届いていなかったようです。
ちなみにヴェネツィア~ローマ間は、日本で例えると東京~大阪間と同じくらいの距離になります。そのくらい離れていれば、文化や価値観が違うのもわからなくはない……ですかね。
東京と大阪でも、うどんのつゆとかお雑煮は別物ですし。スイマセンわかりやすい喩えが食べ物しか出てきませんでした。

 

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マムルーク朝には海戦のプロがいない……(ノ∀`)

閑話休題。
そんなわけで、ポルトガルvsヴェネツィアと愉快な仲間たち(※ほとんどムスリム)の戦いが中東~インド近辺で起こります。
ポルトガルは「よろしい、ならば戦争だ」とばかりに、フランシスコ・デ・アルメイダをインド総督に任命、21隻もの船と共にインドへ向かわせました。
かつてインドへ行ったことがあるアフォンソ・デ・アルブケルケも追いかけ、まず彼が紅海のソコトラ島、次いでペルシア湾の都市・ホルムズを占領します。

いよいよ危機が間近に迫ってきたマムルーク朝は、ポルトガル軍と戦って何とかしようとしますが、ここに来て最大の問題が浮上します。
マムルーク朝には、海戦のプロがいなかったのです。アチャー(ノ∀`)

……まあ、商売でしょっちゅう船を使う上に武装していたヴェネツィアや、上記の通りエンリケ航海王子にお尻を叩かれて外海を行き来していたポルトガルと比べれば、イスラム世界での船の需要は推して知るべし、ですよね。
そんなわけで、マムルーク朝はまた別の国に助けを求めます。

 

荒波にも耐え、大砲もバンバンぶっ放す軍船相手に勝ち目なす

同じイスラム教徒で、自分たちよりも航海の経験があり、国力も充分な国がすぐ近くにありました。オスマン帝国です。
この時期のオスマン帝国は、まだ絶頂期ではなかったものの、着々と領土を広げていました。

オスマン帝国はマムルーク朝に船と傭兵を貸し、ポルトガルと戦えるようお膳立てします。
しかし、ここでまた問題が発生しまいました。
オスマン帝国が貸した船は、砲戦に耐えうる構造ではなかったのです。

一方、ポルトガルの船は、大西洋の荒波にも耐え、ガンガン大砲をぶっ放せる当時最新の船でした。

この時点でもうイヤな予感がしますね。
が、当時は双方ともそんなことは知りません。
ポルトガル軍がアラビア海のインド寄りにある街・ディーウに差し掛かった頃、グジャラート・スルターン朝の軍がポルトガル軍との海戦に入りました。
ディーウは香辛料の積み出し港になっていて、どちらにとっても重要な場所だったからです。えげつない言い方をすれば財布です。

このときはグジャラート・スルターン朝が勝ち、ポルトガル人9名を捕虜にとって、一時この場を離れました。
しかしそれだけでなく、この戦闘でフランシスコの息子が戦死したことで、ポルトガル軍は完全にキレてしまいます。

ディーウの砦/Wikipediaより引用

 

そしてポルトガルの黄金時代は始まった

連合軍側とすれば、ディーウを奪われたら何もかもおしまいです。そのため、元々ここに築かれていた砦を利用しようと考えました。
が、船の上から大砲を打ち込まれては、そもそも戦になりません。
海戦でも相手の船に乗り移れず、やられっぱなしになってしまいます。

そのうちポルトガル軍は上陸し、白兵戦でも散々にやられた連合軍はあえなく敗退。特にマムルーク朝は旗まで取られた上、息子を殺された怒りが冷めやらぬフランシスコに大勢の兵を残酷な方法で処刑され、散々な結果に終わりました。

ちなみに、お金だけ出したヴェネツィアも損なしというわけにはいきませんでした。
教皇に「この前、大損したみたいだし、あいつらそろそろ潰そう」と思われて、他のキリスト教国家に攻められることになったのです。まあそのへんのお話はまた後日。

かくしてポルトガルはインドや東南~東アジアと直接香辛料などの貿易を始め、黄金時代を築いていくことになります。そして、やがては日本にも流れ着くことになるのです。
この戦いでポルトガルが勝っていなかったら、鉄砲やキリスト教が日本に伝わるのも、もっと後のことだったかもしれませんね。

長月 七紀・記

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参考:ディーウ沖の海戦/Wikipedia

 




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