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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

横浜や神戸、長崎に設置された「外国人居留地」 その周囲に中華街が作られた理由は?

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古今東西、生まれ故郷から遠く離れた場所で一旗揚げる人はたくさんいました。
国内の端から端ということもあれば、異国の地で公職について成功したケースも少なくありません。移り住んだ事情も「やむなく故郷を離れた」というものから「一攫千金を狙うため」といったようなものまで個々人によってさまざまです。
本日はどちらかというと後者の目的で日本にやってきた人々のお話です。厳密には、彼らの居住区域について……。

1868年(明治元年)11月19日は、明治政府が築地に外国人居留地を設置した日です。

開港した場所でもないのに、外国人用の住居を用意するというのも不思議ですね。しかも、戊辰戦争(箱館戦争)中のことですし。他の居留地のことも合わせて見ていきましょう。

いきなり前言を翻すようですが、戊辰戦争中にも外国人はたくさん来日していました。そもそも当時の戦闘では西洋の武器がたくさん用いられておりますし、それらを売るための西洋商人がアッチコッチから訪れています。
が、過激な尊王攘夷派と西洋商人・公人のトラブルが多発したため、それを防ぐためにはどうしたらいいか? という話になったわけです。

そこで新政府の間で色々話し合った結果、「外国人には特定の場所に住んでもらって、そこから出ないでいてもらおう。用があるならこっちから出向けばいいし」(※イメージです)ということになりました。
こうして、開港した横浜や神戸などの他、築地などの港に出やすい場所に居留地が作られたというわけです。
といっても、全ての居留地が同じように作られていたわけではなく、また外国人からの印象も異なっていました。

一か所ずつ簡単にご紹介していきますね。

外国商人たち/Wikipediaより引用

外国商人たち/Wikipediaより引用

 

東京【築地居留地】ではミッションスクールが生まれた

東京港はまだ開かれていませんでした。市場は開放されていたため、外国人の便宜を図る目的で、現在の中央区明石町(聖路加国際病院付近)に居留地が作られました。
が、既に横浜に大規模な居留地ができていたので、ほとんどの外国商人は築地には住まなかったそうです。せっかく用意したのに(´・ω・`)

一方で宣教師たちが築地にやってきて教会や学校を作り、この地を発祥とするミッションスクールにとってはゆかりの地となりました。有名どころでは、青山学院などが築地居留地付近を発祥の地の一つとしています。
当時、日本ではまだキリスト教が禁じられていたので、外国人居留地の中でもないと、おおっぴらにキリスト教の教義を広めることができなかったからでしょうね。

また、アメリカ公使館も、当初は築地に作られました。その後赤坂に移転していますので、当時の面影はほとんどありませんが。
余談ですけれども、銀座の端っこあたりを歩いていると、「ここは○○家の屋敷がありました」なんて石碑がそこら中にあるんですよね。よく探してみれば、外国人居留地の碑もあるのかもしれません。

 

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神奈川【横浜居留地】寒村がハイカラな町に

開港した場所として一番有名な横浜。もちろん大規模な居留地が作られました。
開港直後から、山下町を中心とする山下居留地が存在しています。が、西洋建築や西洋人の生活様式がサッパリわかっていなかった頃だったので、建物が純日本家屋だったそうです。西洋人たちは困惑したでしょうね。
最初に来たときは「とりあえずお寺なら安全だから、そこで話をしましょう」ということでお寺が大使館代わりになるのは納得できるにしても、「今度は皆さんが住みやすい場所をちゃんと作りますから」って聞いてたのに、実際来てみたら「今までと変わらん(´・ω・`)」てなわけです。

その後たびたび拡張され、関内や山手のほうにも西洋風の住居や商社が広がり、元は寒村だった横浜がハイカラな町になるきっかけとなりました。
残念ながら、関東大震災などにより、当時の建物はほとんど残っていませんが……。

しかし、全体の人数が増えれば、アレな人も増えるものです。
当時の駐日英国公使などの公人によると、「ヨーロッパの掃き溜め」「破廉恥の見本」と称するような状態だったといいます。公人と商人の関係も決して良くなかったとか。
「よそでケンカすんなよ」とツッコミたいところですが、「地元じゃ鳴かず飛ばずだけど、東洋の新しい国でガッポリ儲けてやるぜ!」とやってきた、犯罪者ギリギリの商人も少なからずいたので、手癖足癖が良くない人も少なくなかったのです。それだけに治安も危ぶまれ、警察機能をどうするかで、少々手間がかかっています。これは他の居留地でも同じだったようで。

もっとも、商人にはキリスト教上のアレコレのために毛嫌いされていたユダヤ系が多かったので、公人=貴族からすれば「商人はユダヤ系が多い」=「汚らわしい」と単純に差別していただけかもしれませんが。
自分たちで”汚い”仕事を押し付けておいてよく言うものです。イギリス人に限った話でもないですけれども。
ちなみに、生麦事件で一人だけ生き残ったイギリス人女性が逃げ戻ってきたのも、横浜居留地です。そのため、横浜居留地の安全については西洋のほうでも敏感になっており、1875年までは英仏軍が駐屯しています。

横浜外国人居留地地図/Wikipediaより引用

横浜外国人居留地地図/Wikipediaより引用

 

大阪【川口居留地】船の出入りができず神戸に商人を奪われ

大阪では海側の入り口にあたる、安治川・木津川の分岐点に作られた居留地です。現在の地名では大阪府大阪市西区川口付近にあたります。その立地から、大阪居留地、または大阪川口居留地とも呼ばれました。
しかし、地形上大きな船が出入りできず、港が整うよりも先に、商人たちは神戸へ移転してしまったので、あまり発展することはなかったようです。せっかく作ったのに(´・ω・`)
商売の拠点としては成り立ちませんでしたが、築地と同様(?)に宣教師たちの拠点となり、やはりミッションスクール発祥の地となっています。
当時の建物は現存していませんが、近い時代(1920年)に竣工した川口基督教会で、何となく雰囲気をうかがうことはできます。

 

兵庫【神戸居留地】「東洋で最も住みよい居留地」だった!?

横浜と並んで、ハイカラな町として知られる神戸。ここにも大規模な居留地が作られました。
兵庫港自体が横浜や長崎より9年遅れて開港したため、他の居留地の失敗点を学ぶことができ、国内どころか「東洋で最も住みよい居留地」だったといわれています。
それだけに西洋人にも好まれ、西洋の食文化やスポーツなども盛んになり、兵庫から広まったものが多くなりました。

ただ、衛生状況はあまりよくなかったようで、初期の頃はチフスが多発したといわれています。「天然痘やコレラもヤバそう」な状況だった(そして日本側があまり良い対応をしなかった)ために、居留地の外国人たちが主導して病院を作りました。
やはり戦時中の空襲でほとんどの建物が焼けてしまいましたが、規模がデカくなりすぎて六甲山麓まで住宅地が広がっていたため、その付近の建物が戦災を免れて残っています。いかにも貴族のお屋敷といった感じのものから、アパルトマン(家具付きアパート)までいろいろな様式の建物が並んでいて、外観だけでも面白いものです。中にはドレスやシャーロック・ホームズ風のコスプレを楽しむことができるところもあるとか。

歴史的事件に絡むところでいうと、神戸居留地は1886年(明治十九年)のノルマントン号事件(イギリスの貨物船が日本人の遭難者を見捨てた事件)に関する査問会と予審が行われた場所でもあります。
学生の皆さんは、「生麦事件は横浜、ノルマントン号事件は神戸」と関連付けておくといいかもしれません。

明治初期の神戸居留地/Wikipediaより引用

明治初期の神戸居留地/Wikipediaより引用

 

長崎【長崎居留地】欧米人が保養地に選ぶ

江戸時代は唯一の貿易港として知られていましたが、幕末以降は上記の通り、横浜や神戸も賑わったため、一味違った発展をすることになりました。
上海などに駐留する欧米人が、保養先として長崎を選ぶようになったのです。元から出島に出入りしていた娼館などもありましたので、いろいろな面で都合が良かったのでしょう。
坂が多く景観が良いこと、近隣に雲仙温泉があることなども、保養地として好まれる一因になったようです。

長崎市大浦居留地通/Wikipediaより引用

長崎市大浦居留地通/Wikipediaより引用

 

居留地の周囲に中華街ができる

この他、箱館(函館)や新潟も開港されていましたが、外国人があまり多くなかったためか、どちらも居留地としては発展せず、フツーに市街地に住んでいたそうです。
いきなりお隣さんが外国人になって、面食らった人もいたかもしれませんね。
外国人居留地は、もう一つ変わった影響を残しています。
当時外国人は、中国を経由して来ることが多かったので、通訳などのために中国人が同行してくることが珍しくありませんでした。「日本では漢字が使えるから」という理由だったそうですが……日本に来た後、その辺のトラブルにならなかったんですかね。

まあそれはともかく、そんな感じで外国人居留地の周辺には、中国人も多く住むようになります。そして、日本と中国各地の間に定期船航路が作られると、さらに中国系の人々が増えていきました。
隣国とはいえ知らない土地ですから、同郷の人々がいるところに集まるのはごく自然なことです。ニューヨークのリトル○○も、元はそんな感じで始まったといいますし。

そんな流れで、中国系の人々によって、横浜・神戸・長崎に中華街が作られました。中でも横浜は飲食業を営む人が多かったため、今日までその状態が続いているというわけです。
同じ中国語でも地方ごとに全く違うことも珍しくないので、中国人同士でもうまくいくとは限らないそうですが。それでも100年くらいは同じところでやってきていることになりますし、他の外国人があまり日本に定着しなかった事を考えると、エネルギッシュというかガッツがあるというか。
そのパワーだけはちょっと欲しい……かも。

長月 七紀・記



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参考:外国人居留地/Wikipedia 旧川口居留地/Wikipedia 神戸外国人居留地/Wikipedia 居留地警察/Wikipedia 横浜中華街/Wikipedia

 

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