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ローマ その日、歴史が動いた

ローマ帝国五賢帝の一人・アウレリウス 敬虔と粗食をモットーにした名君の人生

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「五賢帝で一番長い名前」アウレリウス

自分の意志で行動することはとても大切ですよね。しかし、周囲の状況や立場などを考えると、そうも行かない場面もあるものです。
自分の思うがままに生きていそうなイメージのある王侯貴族だって、身分が高くなればなるほど、そういうしがらみもまた増えていきます。
本日はその一例といえそうな、超有名な君主のお話です。

180年3月17日は、ローマ帝国の「五賢帝」の一人マルクス・アウレリウス・アントニヌスが亡くなった日です。

「五賢帝で一番長い名前」かつ「自省録」という著作を残したことから、ローマ皇帝の中では割と印象に残る人ではないでしょうか。
いちいち「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」と表記するのも長いので、ウィキペディア先生でも「アウレリウス」と表記されていますので、この記事でもそれに倣うことといたします。
「マルクス」というと社会主義でおなじみの人になってしまいますしね。

メトロポリタン美術館のアウレリウス胸像/wikipediaより引用

 

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母から伝えられた敬虔と粗食の教育方針

アウレリウスは、父方は祖父の代から貴族、母方は資産家という恵まれた環境に生まれました。
しかし、3歳で父に死に別れるという不幸にも遭っています。母・ドミティアは再婚せず、家庭教師や侍従たちとともにアウレリウスら子供たちを育てました。
貴族という立場に甘えないよう、敬虔と粗食をモットーとした教育方針は、彼の生涯に大きく影響をあたえることになります。

アウレリウスの面倒を主に見ていたのは、祖父のウェルス2世でした。ウェルス2世はラテラノ大聖堂の近くに屋敷を持っており、アウレリウスにとって思い出の地となります。
後年のアウレリウスいわく「祖父からは良心と自制心を教わった」と回想しているのですが、その祖父は祖母の死後に愛人を家に連れ込んでいます。
当時の貞操概念が現代とは違うとはいえ、幼い孫がいる家に連れてくるなよジーチャン……という気もしますね(´・ω・`)
あまり間を置かずにアウレリウスは祖父の家を出たので、たいした影響はなかったのかもしれませんが。

学問的な面では、ディオゲネトゥスという家庭教師から強く影響を受けていたようです。
影響を受けすぎて、ディオゲネトゥスと同じような服装をしたり、床で寝たり(!)して、カーチャンに怒られたこともあったとか。「あこがれの人の言動をそのまま真似る」というのは、現代の思春期男子と変わりませんね。

また、ときの皇帝・ハドリアヌスから異様に気に入られてもいました。
元々ハドリアヌスとアウレリウスは遠い親戚に当たるのですけれども、それだけでは説明が難しいくらいひいきされまくっています。
具体的なところでいうと、6歳のときに騎士名簿に載っているくらいです。ゴリ押しにもほどがあんだろ。

 

ハドリアヌスにはめちゃめちゃ贔屓され

アウレリウスは、こうした贔屓に驕ることなく、学校で真面目に勉強して出世していきました。
ハドリアヌス帝は晩年、腹心ルキウス・アエリウスを指名したのですが、急病で亡くなってしまったため、もうひとりの腹心だったアントニヌス・ピウスを指名し直しています。アウレリウスとルキウス・アエリウスの息子を養子にすることなどが条件でしたが、アントニヌスはこれを受け入れて次の皇帝となりました。
ただし、アウレリウスには事前に通知されていなかったらしく、渋々従ったとか。ハドリアヌスからしてみればいつものひいきの一環だとしても、人生を半分以上決めるような大事を、当人に全く教えないというのはいかにもアレですよね。

ときにアウレリウス17歳。エリートコースである財務官に就任するためには年齢が足りなかったため、ハドリアヌス帝が「アウレリウスは例外ね^^」とまたしてもゴリ押ししておりました。
元々ハドリアヌス帝は元老院と対立しまくっていたのですが、こういうことしてたからなんじゃ……。

アウレリウスはハドリアヌスを反面教師としたのか、無用な対立を避け、母の教えを守って清廉な生活を続けました。
ハドリアヌス帝は病によって精神にも異常をきたし、自殺未遂を繰り返す状態に陥ります。自覚もあったらしく、治療を諦め、保養地で冥土の土産とばかりに遊び暮らす中で亡くなりました。
最後はアントニヌス・ピウスが看取ったそうです。

正式に帝位を継いだアントニヌス・ピウスは元老院を尊重する方針を取り、安定した政治を実現しました。「ピウス(”慈悲深い”の意)」は彼の方針からきた形容詞だそうで。

アウレリウスはアントニヌス・ピウスにも重用されるようになり、アントニヌス・ピウスの娘である小ファウスティナとの結婚を勧められます。これを受け入れ、アウレリウスは「皇帝の甥であり娘婿」という立場を手に入れました。
それによって副帝の称号なども受けましたが、立場に溺れることなく変わらない生活を続けています。

が、アントニヌス・ピウス帝が「宮殿で立場に見合った(=豪華な)暮らしをするように」と命じられ、ギャップに悩みつつもその通りにせざるをえなくなりました。
できるだけ質素な暮らしを続けようとしていたようですが、やはり引きずられて退廃的になってしまったこともあったとか。
いかに彼が清廉な心の持ち主でも、次期皇帝として候補に上がっているも同然の状況で、周囲と違う生活を続けるというのも難しかったでしょうね。

ハドリアヌス胸像/wikipediaより引用

 

勉強し過ぎ! それは体調を崩すほど

この頃の仕事は、皇帝の秘書+αといったものでした。ときには元老院の面々と討議することもあり、そのために弁論術も学んでいます。
アウレリウスは元々体が頑丈なほうでもなかったので、多忙で体調を崩したこともあったとか。秘書に「もうちょっと睡眠を取るべきですよ」とたしなめられたことがあるくらいです。いい部下を持っていたんですね。

また、弁護士や哲学者にも教えを受けています。
最も重用されていたのは、アテネ出身の弁護士ヘロデ・アッティクスでした。
アウレリウスは彼から弁論術を学んだのですが、ヘロデは性格と贅沢好きが過ぎてアテネでも嫌われていたくらいなので、当然質素を好むアウレリウスとも反りが合いませんでした。
「自省録」でも"いなかった”ことにされているくらいです。ひでえ。

逆に、フロントというラテン人弁護士について、アウレリウスは強い敬愛の念を持っていたようです。
フロントは病弱な質でもあり、アウレリウスから送られた手紙の1/4は師の体調を気遣う手紙だとか。元の手紙の数が多いのか、ただ単に割合が多いのか……。
もう一人、ユニウス・ルスティクスという哲学者も生涯の師と仰ぎました。元々思索が好きな質だからでしょうね。

アウレリウスはこうした良い先生に恵まれ、弁論や学問を身に着けていきました。が、勉強が過ぎて体調を崩すこともままあったようです。
小松帯刀といい、”真面目すぎて自分の身を顧みない”というタイプは洋の東西を問わず度々出てくるようですね。

私生活では、多くの子供に恵まれていますが、そのうち五人に先立たれているという不幸も経験しています。
「自省録」ではギリシアの長編叙事詩「イーリアス」の文句を引用して「木に実る葉のうち、いくつかは風で落とされるものだ」と書いていますが、果たして内心はどうだったやら……。幸い、後に生まれた子供は成長できたのですけれども。

 

先帝・ピウスが亡くなったときもスムーズに帝位を継承する

公的にも順調に出世し、アウレリウスは即位への道筋を着実に進んでいきます。
アントニヌス・ピウス帝が70歳を超える頃には、皇帝の仕事を一部代行するまでになりました。
先帝の生前からそうだったので、アントニヌス・ピウス帝が亡くなったときもスムーズに帝位が継承されています。
アウレリウス自身は相変わらず皇帝の地位や宮殿の生活が好きではなかったのですが、ハドリアヌス帝への恩もあったので即位し、皇帝らしい暮らしをしはじめました。

また、ハドリアヌス帝の遺言に従い、義弟にあたるルキウス・ウェルスを共同皇帝としています。
実質的にはアウレリウスのほうが権限が多かったのですが、アウレリウスはルキウス・ウェルスに自分の娘を嫁がせ、お互いの立場を万全にしました。
皇帝に即位してからもできるだけ質素と謙虚を保ち、民衆からも慕われるようになっていきます。貧民に対する事前政策も行い、皇帝への揶揄を含めた言論の自由を保証しました。
全体的に言って「寛容な政策」といえるでしょう。

しかし、皇帝の仕事は内政だけではありません。
アウレリウス帝の時代は、外国との戦争も多い時代でした。
彼の失策というよりは、アントニヌス・ピウス帝の時代に対外戦争がなかったことの反動というべきでしょうか。

ひとつは現在の西アジア~中東にあったパルティア王国との戦争で、そのまんま「パルティア戦争」といいます。
この国についてはアントニヌス・ピウス帝も「いつか戦争をすることになるだろう」とみていました。パルティア王国はローマ帝国の庇護下にあったアルメニア王国を侵攻し、ローマ帝国は傘下の国を助けるために兵を出すことになります。

しかし、同時期にブリタンニア(だいたいイギリス)、ラエティア・ゲルマニア(2つともだいたい現在のドイツ)でも反乱が起き、多方面に渡って対策を強いられることになりました。
アウレリウスは元が学者肌であり、国境地帯の総督を経験したこともなかったため、初動が遅れてローマ軍が押される状況が続きました。
そこで、西方に配していた軍を東方へ向け、西方の総督には「周辺地域を刺激しないように」と厳命して急場をしのぐことにします。

 

少々gdgdながらもパルティア戦争に粘り勝ち

指示を出した後、アウレリウスは4日間の休暇を取りました。
休暇先でも仕事はしていたので、バカンスというよりは「考えをまとめるために場所を変えた」と見るべきでしょうか。
この間、恩師フロントからは「ローマが敗れたことは過去に何度もある」「しかし、最後には必ずローマが勝ってきたのだ」といった励ましの手紙が届いています。いい先生や。

恩師の励ましによって、アウレリウスの精神状況は改善されたでしょうが、残念ながら戦況はそう簡単には好転しません。そこで、元老院は「ルキウス・ウェルス帝に前線へ行ってもらい、兵を鼓舞してもらおう」と考えました。
一方で、民衆からの人気が高いアウレリウス帝は「ローマにいたほうがいい」と残されています。日頃の行いが如実に現れてますね。

元々ルキウス・ウェルス帝は素行がいいとはいえない人でしたが、督戦のために出かけていっても同じでした。前線ではなく後方で遊んでばかりで、兵の様子を見ようともしなかったそうです。
よくこれでローマ軍は完敗しなかったものですね。

パルティア王国との戦争はしばらく続きましたが、最終的にはフロントが書いた通り、ローマ軍が勝ちました。
パルティア戦争の凱旋式でアウレリウスの双子の息子たち(※まだ5歳)に副帝の称号が与えられ、後継者であることが示されています。
残念ながら、うち一人は翌年に大流行した天然痘で亡くなってしまったのですが……。

このときの流行は凄まじいもので、「一日2000人が亡くなった」「ローマ帝国全体で500万人以上が犠牲になった」とされるほどでした。
東京都の人口が1300万人くらいなので、イメージ的には「都内の人が1/3くらいになったのと同じ感じ」になりますね。怖すぎ。

 

マルコマンニ戦争の陣中で没す 享年58

もう一つ、アウレリウスの時代に起きた大きな反乱が“マルコマンニ戦争”です。
「マルコマンニ」とはゲルマン系民族の名前でした。このときの反乱軍は他の民族との連合軍であり、マルコマンニ族だけではなかったのですけれども。ゲルマン系が多かった地域=現在のドイツあたりに有能な総督がいなかったため、パルティア戦争の隙を突かれて起きた戦争です。

こちらは戦場が帝国本土に近いこともあって、アウレリウスとルキウス・ウェルス二人が軍の指揮を執りました。

しかし、早いうちにルキウス・ウェルスが急死し、アウレリウスの単独親征となります。上記の通り、彼は元々軍人ではないこともあって、マルコマンニ戦争もまた長引きます。
アウレリウス自身、この頃から健康を残っており、不安が拭えなかったようで、息子たちの中で唯一生き残っていたコンモドゥスを陣中で共同皇帝に指名しています。「自省録」を書いたのも、この戦場でのことでした。半分は遺言のようなものだったのでしょうね。

マルコマンニ戦争でもローマ軍は10年以上苦戦が続き、一時はマケドニアやギリシア方面、そしてイタリア半島にまで攻め込まれています。
これだけgdgdが続いたため、ローマ軍の中にも反乱を企てる者が現れました。これは「アウレリウス帝病没」の誤報によってボロを出し、未然に防がれたのですが。

実はこの反乱に、アウレリウスの妻が関わっていたフシがあるとかないとか。病気で苦しみながら戦争の指揮をしているのに、よりにもよって自分の妻に背かれるとか悪夢ですね。
反乱のショックがどの程度影響したかは定かではありませんが、アウレリウス帝はマルコマンニ戦争の陣中で没しました。
既に共同工程になっていたため、コンモドゥスへの帝位継承はスムーズに行われたのですけれども……その結果はこちらで→過去記事:コンモドゥスは賢帝愚息の典型か? 暗殺に怯え、そして、暗殺に散った武人の評価。

長月 七紀・記

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参考:マルクス・アウレリウス・アントニヌス/wikipedia


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