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【アウレリウス】
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アウレリウス帝の時代は、外国との戦争も多い時代でした。
彼の失策というよりは、アントニヌス・ピウス帝の時代に対外戦争がなかったことの反動というべきでしょうか。
ひとつは現在の西アジア~中東にあったパルティア王国との戦争で、そのまんま「パルティア戦争」といいます。
この国についてはアントニヌス・ピウス帝も「いつか戦争をすることになるだろう」とみていました。
パルティア王国はローマ帝国の庇護下にあったアルメニア王国を侵攻し、ローマ帝国は傘下の国を助けるために兵を出すことになります。
しかし、同時期にブリタンニア(だいたいイギリス)、ラエティア・ゲルマニア(2つともだいたい現在のドイツ)でも反乱が起き、多方面に渡って対策を強いられることになりました。
アウレリウスは元が学者肌であり、国境地帯の総督を経験したこともなかったため、初動が遅れてローマ軍が押される状況が続きました。
そこで、西方に配していた軍を東方へ向け、西方の総督には「周辺地域を刺激しないように」と厳命して急場をしのぐことにします。
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少々グダグダながらもパルティア戦争に粘り勝ち
指示を出した後、アウレリウスは4日間の休暇を取りました。
休暇先でも仕事はしていたので、バカンスというよりは「考えをまとめるために場所を変えた」と見るべきでしょうか。
この間、恩師フロントからは「ローマが敗れたことは過去に何度もある」「しかし、最後には必ずローマが勝ってきたのだ」といった励ましの手紙が届いています。いい先生や。
恩師の励ましによって、アウレリウスの精神状況は改善されたでしょうが、残念ながら戦況はそう簡単には好転しません。
そこで、元老院は「ルキウス・ウェルス帝に前線へ行ってもらい、兵を鼓舞してもらおう」と考えました。
一方で、民衆からの人気が高いアウレリウス帝は「ローマにいたほうがいい」と残されています。日頃の行いが如実に現れてますね。
元々ルキウス・ウェルス帝は素行がいいとはいえない人でしたが、督戦のために出かけていっても同じでした。
前線ではなく後方で遊んでばかりで、兵の様子を見ようともしなかったそうです。よくこれでローマ軍は完敗しなかったものですね。
パルティア王国との戦争はしばらく続きましたが、最終的にはフロントが書いた通り、ローマ軍が勝ちました。
パルティア戦争の凱旋式でアウレリウスの双子の息子たち(※まだ5歳)に副帝の称号が与えられ、後継者であることが示されています。
残念ながら、うち一人は翌年に大流行した天然痘で亡くなってしまったのですが……。
このときの流行は凄まじいもので「一日2000人が亡くなった」「ローマ帝国全体で500万人以上が犠牲になった」とされるほどでした。
東京都の人口が1300万人くらいなので、イメージ的には「都内の人が1/3くらいになったのと同じ感じ」になりますね。怖すぎ。
マルコマンニ戦争の陣中で没す 享年58
もう一つ、アウレリウスの時代に起きた大きな反乱が“マルコマンニ戦争”です。
「マルコマンニ」とはゲルマン系民族の名前でした。このときの反乱軍は他の民族との連合軍であり、マルコマンニ族だけではなかったのですけれども。
ゲルマン系が多かった地域=現在のドイツあたりに有能な総督がいなかったため、パルティア戦争の隙を突かれて起きた戦いです。
こちらは戦場が帝国本土に近いこともあって、アウレリウスとルキウス・ウェルス二人が軍の指揮を執りました。
しかし、早いうちにルキウス・ウェルスが急死し、アウレリウスの単独親征となります。
上記の通り、彼は元々軍人ではないこともあって、マルコマンニ戦争もまた長引きます。
アウレリウス自身、この頃から健康を残っており、不安が拭えなかったようで、息子たちの中で唯一生き残っていたコンモドゥスを陣中で共同皇帝に指名しています。
『自省録』を書いたのも、この戦場でのことでした。半分は遺言のようなものだったのでしょうね。
マルコマンニ戦争でもローマ軍は10年以上苦戦が続き、一時はマケドニアやギリシア方面、そしてイタリア半島にまで攻め込まれています。
これだけgdgdが続いたため、ローマ軍の中にも反乱を企てる者が現れました。これは「アウレリウス帝病没」の誤報によってボロを出し、未然に防がれたのですが。
実はこの反乱に、アウレリウスの妻が関わっていたフシがあるとかないとか。病気で苦しみながら戦争の指揮をしているのに、よりにもよって自分の妻に背かれるとか悪夢ですね。
反乱のショックがどの程度影響したかは定かではありませんが、アウレリウス帝はマルコマンニ戦争の陣中で没しました。
既に共同工程になっていたため、コンモドゥスへの帝位継承はスムーズに行われたのですけれども……その結果は以下の関連記事にて。
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長月 七紀・記
【参考】
『ローマ皇帝歴代誌』(→amazon)
マルクス・アウレリウス・アントニヌス/wikipedia