「親の七光り」でまるでダメな人物が跡を継いでしまったり、周囲に迷惑をかけたり。実際、マイナスな事例が多いからこそ、そのような印象が定着してしまうのでしょう。
本日はヨーロッパのあの帝国における、そんな感じの君主をご紹介します。
161年8月31日は、ローマ皇帝・コンモドゥスが誕生した日です。
まず間違いなく、この人よりも父親のほうが有名でしょう。
五賢帝最後の一人であるマルクス・アウレリウス・アントニヌスです。
『自省録』を書いた「哲人皇帝」として、世界史の授業でも覚えさせられるあの人……の息子。
賢帝の息子となれば、コンモドゥスもさぞかし優秀だったのだろうか?
と思いたいところですが、なんとも……。
白内障の手術も手がけた名医に看られ
コンモドゥスは幼少の頃、あまり体が丈夫ではなかったようです。
彼の兄が早世したこともあって、父はコンモドゥスを死なせまいと、当時最高の医師であるガレノスをつけました。
ガレノスはヨーロッパやイスラム世界の医学の祖とされる医師の一人で、この時代に白内障の手術をやったこともある人です。すげぇ。
彼のおかげで生き延びたコンモドゥスは、父から皇帝としての心得などを教わって成長していきました。
これによって文人的な性格が強くなったといわれているのですが、11歳のときに父の副官としてマルコマンニ戦争にも参加しているので、文武両道というほうが近いですかね。
マルコマンニ戦争とは、当時ローマ帝国の勢力圏ギリギリだった中欧の諸民族との戦争です。
この戦争の間に父が健康を害したため、共同皇帝になりましたが、その他にも戦地である「ゲルマニクス」(ドイツ周辺の古名)を称号にもらったりしているので、何らかの戦功はあったと思われます。
そして19歳のとき父が亡くなり、コンモドゥスが正式に単独の皇帝となりました。
姉のアキッラに暗殺されかけ、20代で隠居
皇帝になると、マルコマンニ戦争を和議によって終わらせたり。
ブリタンニア(イングランドの古名)で反乱が起きたときには、直訴に来た兵は叱責でとどめて軍の責任者だけを罰していたり。
剛柔の手を使い分けています。
そんな感じで割といい皇帝だったのですが、自分の姉・アキッラにささいなことで恨まれ、暗殺されかけてから疑心暗鬼が強まってしまうのです。
暗殺者はもちろん、少しでも関係を疑われた人は容赦なく処刑。
一方、主犯の姉を処刑することができず、流刑で終わらせているあたり「ゑ?」という気もします。
他のエピソードからしても、コンモドゥスには「近い関係の女性にあまり厳しくできなかった」節があります。
アキッラ事件の後、身の安全のために幼いころからの友人・クレアンデルを重用し、自分は政治から遠ざかっていきました。
ちなみにこの頃まだ20代です。
いくらなんでも隠居には早過ぎるやろ。
しかし、クレアンデルは次第に増長し、自分に反対する元老院議員を暗殺するわ、親衛隊長をブッコロして後釜に座るわ、ついでに賄賂をあっちこっちから取って私腹を肥やしはじめるわのやりたい放題。
テンプレすぎて唖然としますが。
当然、周囲からは恨まれるようになり、ローマが食糧難になったとき、罪を着せられてしまいました。
ホント、こういうときって日頃の行いが物を言いますよね。
闘技場で武術を披露したり、おかしな行動が増え始め……
一方、コンモドゥスはこの時ローマ郊外の離宮にいました。
重臣からの報告は聞き流していましたが、姉・ファディラに説得されてクレアンデルの処分を決めます。
クレアンデルの頭を槍で串刺しにして、民衆の前に放り出したとか。
もみくちゃ(※ソフトな表現)にされた後は下水に放り込まれたそうです。
アテにしていたクレアンデル、そして連座した多くのお偉いさんがいなくなってしまったので、コンモドゥスは親政を再開。
しかし、武術や娯楽に没頭するようになり、だんだんとアレな方向に進んでいってしまいます。
改名して「ヘラクレス」「ロムルス」といった神話に出てくる名前を入れたり。
闘技場で武術の腕前を誇示してみせたり。
為政者としてはふさわしくない言動が目立っていきます。
弓や槍の腕前は確かだったようですが、暗殺を恐れすぎて、力を誇示することに固執していたのでしょうか……そう考えると哀れではありますが。
しかし、疑心暗鬼に陥っていたのはコンモドゥスだけではありませんでした。
192年にコンモドゥスは、近衛隊長や元老院の大部分、そして愛妾マルキアを暗殺する計画を立て、対象者をリストアップしていました。
案の定、これを当のマルキアに見られてしまい、計画が対象者にバレます。
そして、マルキアを含む彼らは「殺られる前に殺れ!」とばかりに皇帝暗殺を決めました。
ワインに毒を入れておけば簡単に殺せるじゃないか
武術の達人であるコンモドゥスには力で勝負しても無理――そうえた彼らは
【コンモドゥスは風呂あがりにワインを飲む習慣がある】
ということに目をつけます。
「毒を入れて飲ませれば、誰も怪我をせずに殺れるじゃないか」
マルキアが手はずを整え、見事毒を飲ませることに成功しました。
しかし、コンモドゥスは食事の際に解毒剤を飲むという習慣もあったため、すぐには死にませんでした。
マルキアたちは慌てて近衛の兵を呼び、皇帝を絞殺させたといわれています。
もともとマルキアは毒を飲ませた後、コンモドゥスが静かに息を引き取れるように人払いをしていたそうなのですが……思いやるトコちょっと違うやろ(´・ω・`)
暗殺成功の後、元老院はコンモドゥスに「ダムナティオ・メモリアエ(記録の抹消)」処分を決めます。
なかったことにされてしまうのですから、ローマ帝国では一番重い刑罰。
大理石像ですらコンモドゥスの部分だけを削りとったそうですから、周到というか執念の強さがうかがえるというか。
しかし、アウレリウスとコンモドゥスに仕えていたセウェルスが皇帝になると、あっさり名誉を回復されていたりします。
だから、どういうことだってばよ!
セウェルスが長生きだったからそういうことができた、と考えることも可能ですが、元老院の中には同じくらい生きていた人がいてもおかしくありません。
それにもかかわらず、近い時代にコンモドゥスの名誉回復ができたということは、今日伝わっている彼の逸話は、故意に貶められたものもあるのではないでしょうか。
『ローマ皇帝歴代誌』もそんな感じで書いていますしね。もちろん、タイムマシンができない限り、当時のことをそのまま知ることはできないわけですが……。
「記録する側の恣意が存在する”かもしれない”ということを念頭に置く必要がある」ということがよく分かる事例かもしれません。
長月 七紀・記
【TOP画像】
コンモドゥス/photo by I, Sailko wikipediaより引用
【参考】
『ローマ皇帝歴代誌』(→amazon link)
コンモドゥス/wikipedia