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【古戦場を歩く】本能寺の変のあとの「飛騨の関ヶ原」八日町の戦い

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天王山や関ヶ原といわれるように、何らかの節目となる戦いなどには、このような代名詞がつけられることがあると思われます。そんな戦いの一つに飛騨(岐阜県北部)の関ヶ原といわれる八日町の戦いがあります(といってもこの戦い自体は関ヶ原よりもずっと前の戦です)

この八日町(岐阜県高山市)というのはどのような戦いだったのだろうか。その戦模様について少し書いていきたいと思います。

 

本能寺の変で全国各地でバトルが勃発

本能寺において、織田信長が倒れると、信濃や甲斐などといった国と同様に、飛騨でもその土地の国人衆などがこの混乱を機にいろいろな行動をしてきたのであります。

その一つとして飛騨の覇権を巡って争ったのがこの八日町の戦いなのであります。

 

この戦いでの主役は、江馬輝盛と姉小路頼綱。輝盛は江馬家16代目当主。父との方針の違いにより、殺害したのち、上杉や武田と組んだりしながら生き残ってきた飛騨国高原諏訪城主です。

一方の姉小路頼綱(信長の野望とかで国力の弱い飛騨国代表となってる人)は、もともとは三木自綱と名乗っていたのでありますが、親の良頼から姉小路性を名乗るように指示されたのであります。
もともと飛騨国司であった姉小路氏とは三木氏は何の関係もない(というかむしろ敵対してたりもした)のですが、朝廷から官位が欲しくて欲しくてたまらなかったのでわざわざ名乗ったそうです(実際に従五位下飛騨守を頂いています)。

さらにそれには飽き足らず、わざわざ大納言と自称。(でも誼<よしみ>を通じていた信長にはヘタレたのか中納言と名乗っていた)

そんなちょっと権威にあこがれていた田舎者姉小路氏が江馬氏と飛騨の覇権を争って戦ったのであります。

 

江馬輝盛の軍勢が3000人、姉小路氏の軍勢が2000人と、江馬軍が優勢。そのため姉小路の家臣からは籠城戦をすることを主張したが、「は?籠城とか嫌やし。狭いところで迎え撃ちゃ数関係ねえし」というような感じだったのかそうでないのか籠城を拒否。自ら大阪峠に出向いて野戦に出たのである。

両軍は八日町付近で荒城川を挟んで決戦を挑んだ。戦の情勢は江馬軍が優勢。姉小路軍は押されっぱなし。これ以上やられたら負けちゃうよ~~~と言わんばかりまで押されてしまいます。

大きな地図で見る
姉小路側からはやっぱり野戦なんかダメやないかと聞こえてきそうな状況です。

 

一方の江馬側はあともう少しで勝利という場面。

この状況に輝盛も「勝ったな(確信)」と余裕の状況であったでしょう。

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 たった1発の銃弾が大将を撃ち抜く 平将門の変かよ

しかし、そんなほぼ勝ち確定の状況で、突如姉小路軍の伏兵が出現。

何とかこれで形勢逆転しないか?と放った最後の手段がなんとこれが大当たり!!! 伏兵の放つ銃弾が大将の輝盛に命中。

「あれ・・・おかしいなあ・・・もうすぐ勝って明るい光景が見えるはずなのに・・・目の前が真っ暗だよ・・・・バタッ。」

image002

輝盛の墓。後ろの石はのちに息子が同じ場所で切腹したという切腹石

たった一発の銃弾で形勢逆転し、輝盛は討死。そのまま江馬軍は敗北。重臣たちも輝盛が死んでしまったので「もうだめだあ・・・おしまいだあ」と思い殉死。(のちに、ここで死んだ13人の重臣にちなんで、大阪峠は十三墓峠と呼ばれるようになります。)この戦いの勝敗は決定するのであります。

その後は、姉小路側の小島時光によって居城の高原諏訪城を責められて江馬氏は降伏することになるのです。

十三

十三墓峠の説明板

 

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 この戦いについてあふれる疑問

さて、ここまで読んでいただいたのはいいのですが、実際は結構この話には疑問点が多いのであります。

その点について、少し挙げていきたいと思います。

 

(1)兵数について

当時の飛騨国の国力は低く、この人数を集めるというのは、実はかなり困難なようなのです。

土地が土地だけに石高すら少なく、飛騨全体でも約3万5千石しかないのであり、さらには飛騨の国全体で住んでいる人の人数が大体6万人くらいだと言われている状況だったそうです。

これを半分くらい女性と適当に考えたとしても、3万人くらいしか男性はいません。

さらに、徴兵可能な人間がどれだけいるのかとなるかを考えると、飛騨のすべての領土が両陣営のものではありませんのでもっと少なくなるのであります。

もっとも~~~っと、考えていくと戦に出られる人間、動員できる地域の兵力もいれていけば何とか集められるのか?と思えるかどうか微妙な人数になってきます。

 

特に、3000人を動員したという江馬氏が治めていた地域は現在の岐阜県飛騨市神岡町付近。あの辺りだけでは、戦力を集めるのは相当厳しいのです。ちなみに平成22年国勢調査では、人口は9526人です。当時ならもっと少ないかも?

おまけに他国からの援軍の期待もなく、動いた様子もありません。ですので、基本的には飛騨国内での人員しか動員ができないのであります。となれば、余計に人なんて集められません。強引に徴兵も可能ですが、2000人集めるのもおそらく厳しいでしょう。

一方の姉小路側の方は、小島氏や広瀬氏などといった味方を多くつけており、姉小路氏自体も飛騨南部一帯はほぼ手中に収めていますから、明らかに勢力的には相手より大きいのです。ですから、普通に考えると、姉小路側の方が多い可能性が高いのです。

兵数について色々な記述がありますが、飛州軍乱記には、姉小路側が1000人、江馬側が300人とかなり小規模な人数で書かれており、この疑問に一致するような数字が記載されているものもあります。

しかし、これでは逆に攻める側が少なすぎであり、その状況で自ら攻めてくるのはおかしいと思われることもあるでしょう。

確かに普通に考えればそうかもしれないのではあります。ただ、輝盛は何気に戦上手でもあり、上杉謙信を一度破るほどの腕前も持っているほどですので、多少の数は少なくてもいけると踏んだ可能性も否定できないのです。その考えを持つ根拠として、家臣が輝盛討死後に殉死していることからも、彼には厚い信頼があったのではないかという面が考えられるからです。

 

(2)実際の戦模様はどうだったのか?

いくつかの文献からは、江馬軍が優勢のものや互角の状況だったとするものがありますが、江戸時代に書かれたものが多く、信用性が低いものがかなりあるといわれています。

そこで、合戦の近い時期に書かれ、一番信頼性の高い史料とされる大般若派羅蜜多経の奥書を参照にその模様を見ていきたいと思います。

その奥書によると、江馬氏ははじめ小島氏の城である小島城を攻めたのであるが、城攻めには失敗。城攻めに失敗して退却中に八日町付近で姉小路らの連合軍と戦闘を開始。約2時間の戦闘を行った後にそのまま敗れ去ったとなっているのです。

詳しい戦模様まではかかれてはいないのですが、2時間ほどかけて戦ったのですから、もしかしたら、人数的なことも考えるとかなりの激戦をしていたのかもしれません。

 

大逆転劇でなく、普通に多勢が無勢を倒した?

 

色々な書物などを調べた結果。普通に姉小路氏の根回しの良さと、国力差によって江馬氏を撃退したのではないかと思われます。

この戦いによって飛騨は内ヶ島氏を除いて、姉小路氏が支配することになったのであります。まあ、そうはいっても数年後には姉小路氏も秀吉に滅ぼされるのですし、内ヶ島氏も地震で一族郎党、雲に帰っちゃうのですがね。(居城の名前は帰雲城)

そして、江馬氏も負けた後は輝盛の息子の時政が秀吉配下の金森長近に従って、飛騨の平定に参加します。が、平定後に恩賞の問題で秀吉に対して蜂起。敗れ去ったのちに父と同じ死に場所付近で切腹して果てたとされているのであります。

最終的には、合戦の主役はいなくなってしまいました。ただ、この合戦はいくつかの書物に残されるほどこの地域の人たちにとっては語り継がれてきたものと思われます。

また、色々な戦の脚色については、面白おかしくしたり話を盛り上げるために誇張されている面もあるのでしょう。ですが、輝盛については重臣が殉死していることや、領民から墓を建ててもらうほど慕われているような面も見受けられることから、彼を悪く言わないようによく戦ったというイメージを残しておきたかったのかもしれません。

十三士

十三士の碑

 

そんなこんなで普段はスポットにすら当たらないだろう飛騨での大きな戦いに焦点を当ててみました。

若年寄・記

参照文献

国府町史 通史編 Ⅰ 国府町史刊行委員会

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国府史料 第6号 国府史学会




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