1728年(日本では享保十三年)の2月21日、ロシアの皇帝・ピョートル3世が生まれました。
エカチェリーナ2世の旦那さんで、皇帝の位にいたのはたったの半年。
英国のジェーン・グレイよりはマシとはいえ、その原因が自分の行動にあるのですからまさに自業自得ともいえます。
彼の生い立ちはかなり複雑で、夫婦ともども途中で名前が変わるので……最初からピョートルとエカチェリーナでいきますね。
お好きな項目に飛べる目次
神聖ローマ帝国の北のはずれ
ピョートル3世はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国(ホルスタイン牛のふるさと)という舌を噛みそうな名前の国で生まれました。
地理的には、神聖ローマ帝国(ドイツのもと)の北のはずれ。
この頃の同国は「帝国の中に国がたくさんある」状態になっていたので、大まかに見れば神聖ローマ帝国出身ということになります。
もう少し詳しく言うと、デンマークとドイツの境目あたり。
王様同士に血縁もあり、極めて複雑な家庭環境でした。
祖父はロシアの偉大なチート皇帝
教育や文化、宗教はドイツのものだったので、ピョートル3世はドイツ人として育ちます。
その彼がなぜロシアの皇帝になったのか?
というと、母親がピョートル1世(大帝)の娘だったからです。
そしてこの頃皇帝だったエリザヴェータはその妹でした。
彼女には子供がいなかったので、血縁的に近いピョートル3世を後継者に指名し、ロシアへ呼び寄せたのです。
彼がまだ14歳のときでした。
ロシアで暮らすにあたってピョートル3世は、プロテスタントからロシア正教に改宗し、名前もそれまでのドイツ風からロシア風に変えるところまでは迎合しました。
が、それ以外は依然としてドイツ人気分のまま。
特にエカチェリーナ2世と結婚してからは悪い意味で顕著になります。
彼女は神聖ローマ帝国出身ながら、ロシア語を積極的に学び、ロシア文化へ溶け込むための努力を重ねて周囲に認められていきました。
しかしピョートル3世はそういうことをしなかったため、違いが浮き彫りになってしまったのです。
当然、もともと良くなかった夫婦仲は冷え切り、二人とも愛人を作って修復不可能な状態にまで陥ります。
王室の後継者は嫁の浮気相手の子供???
エリザヴェータ女帝が、この二人を仲裁するのかな?
と思いきや、彼女は後継者さえいればいいという主義だったようで特に口を挟みません。
エカチェリーナ2世が男の子(後のパーヴェル1世)を産んだとき、父親は愛人の可能性が高かったといわれているのですが、それも気にせず手元へ引き取って育てています。
形だけでも後継者夫婦の息子なら構わないと思っていたのでしょう。
そのせいでエカチェリーナ2世とパーヴェル1世の仲は、実の親子とは思えないほど冷え切るんですが、まあそれは別の機会に。
ほどなくしてエリザヴェータが亡くなり、ピョートル3世が即位。
妻にも貴族にも人望のなかった彼は、相変わらずドイツ贔屓を続けます。
とにかく決定的にマズかったのが、エリザヴェータが始めた戦争を独断で講和してしまったことです。
戦争の相手は、当時、神聖ローマ帝国内で最も強国だったプロイセン王国でした。
だいたい現在のドイツとロシアの間あたりにあった国で、それゆえに三十年戦争での被害が少なく、この時期に台頭してきていたのです。
当時の王様は”大王”と称されたフリードリヒ2世で、ドイツびいきのピョート3世が最も心酔している人物でした。
フリードリヒ2世はとにかく戦争に強かったので、単純に憧れたのでしょうね。
あと一歩で勝利だったのに……勝手に戦争を終結
このときの戦争は後に「七年戦争」と呼ばれるもので、単純なロシアvsプロイセンの戦争ではありませんでした。
火種は神聖ローマ帝国内の皇帝位に関する問題だったため、ハプスブルク家vsプロイセンの争いだったのです。
ハプスブルク家には優秀な軍人がおらず、士気も指揮もプロイセンには及ばなかったため、フランスとロシアに同盟を持ちかけての戦い。
つまりは
【ハプスブルク家&フランス&ロシア連合軍vsプロイセン】
という構図ですね。
余談ですが、この同盟が結ばれたとき、各国の実質的なトップは全員女性でした。
そのせいなのか。
「ペチコート同盟」というよくわからん異名がついています。
ペチコート同盟という名前はテストに出ませんが、女性たちの名前は覚えておくといいかもしれませんのでついでに書いておきましょう。
◆七年戦争時:ペチコート同盟の内訳
【ロシア】エリザヴェータ(女帝)
【フランス】ポンパドゥール夫人(王様の愛人でやり手政治家)
【ハプスブルク家】マリア・テレジア(マリー・アントワネットの母ちゃん)
これはかなりの著名人揃いですので覚えやすいかもしれませんね。
実際、さしものフリードリヒ2世も三カ国の大軍相手に苦戦を強いられ、あと一歩で首都ベルリンがロシア軍に落とされるところまで追い詰められます。
が、このタイミングで同盟軍同士がケンカした上、同盟の一角・エリザヴェータが亡くなり、さらにはピョートル3世が
「ワタシはアナタを尊敬しているので戦争止めます!賠償金も請求しません!これから仲良くしてください!!」
と言い出したため、プロイセンは助かり、最終的な勝者になりました。
軟禁後1週間ほどで謎の急死はどう考えても
勝手に「いち抜けた!」をやらかしたピョートル3世。
彼に対する、ハプスブルク家やフランス、ロシア国内の反応は、もちろん最悪です。
特に国内で大ブーイングが巻き起こり
「もう、アイツどうしようもないから(ピー)して、エカチェリーナ様に皇帝になってもらおう!」
という動きが加速します。
ついにはクーデターを起こされ、ピョートル3世は廃位に追い込まれました。
代わって即位したのがエカチェリーナ2世で、以降、ロシア帝国は発展していきます。
廃位にされたピョートル3世はどうなったか?
一旦軟禁され、命は助かります。
ふぅ、良かったね。ヨーロッパって意外とユルいんだね。
殺されたことは誰の目にも明らか
と、思ったら1週間ほどで急死――。
公式には持病の悪化という発表ですが、殺されたことは誰の目にも明らかでした。
エカチェリーナ2世が関与していたかどうかは不明です。
彼女ならもっと自然な形に見せかけたでしょうから、焦った誰かが勢い余って殺してしまったのかもしれませんね。
他にも「種無し」とか「幼稚」とか何かと悪評の多いピョートル3世。
これについてはクーデターを正当化するためにエカチェリーナ2世側があれこれ言った可能性も高く、鵜呑みにはできません。
それでも敵国だったドイツ(プロイセン)の肩を持ちすぎたのは事実。
昨日、ご紹介した英国のエドワード6世は、父のヘンリー8世から鬱積してきた要因が重なりすぎて不幸な一生で終わりましたが、ピョートル3世は自ら不幸の道をズンドコ邁進してしまった形になります。
もしエドワード6世がピョートル3世の生涯を知ったら
「恵まれていたくせにアホか!」
と怒る気がしてなりません。
長月 七紀・記
【参考】
ピョートル3世/wikipedia