「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一。
実に500もの機関や企業の設立に関わったとされますが、なぜ彼はそれほどの経済感覚を身に着けることができたのか?
そうした渋沢の特長を語る上で、避けては通れないビッグイベントがあります。
第2回パリ万国博覧会です。
慶応3年2月27日(※西暦で1867年4月1日~10月1日)に始まり、約半年ほど開催されていたこの「パリ万博」。
世界的イベントの一つであり、ナポレオン3世の招致で幕府も参加したのですが、1867年(慶応2年)と言えば、栄一の主君である徳川慶喜が大政奉還を実施した大変な時期でもあります。
超多忙だったときに、ノコノコと欧州まで出かけたのはなぜなのか?
万博で浮かれてる場合じゃないだろ……。
そう呆れられそうですが、幕府と栄一には「この時代だからこそ」パリへ行かなければならない理由があり、そしてその経験は大きな実となったのです。
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慶喜の弟・昭武をパリへ
前述の通り、当時の栄一は徳川慶喜に仕える立場です。
主に一橋家の財政面をサポートしていましたが、14代将軍・徳川家茂が亡くなると、にわかに主君・慶喜の将軍就任という話が持ち上がってきます。
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平時であれば、主君の将軍就任は願ってもないこと。
家臣としても誇り高いはずですが、ともかくこの頃は時期が悪かった。
栄一はこんな言葉を残しています。
「どんな名君でも再生することはできないし、慶喜の将軍就任は自ら死地に飛び込むようなものだ」
しかし、時代の流れには逆らえず、その先駆けとして徳川宗家の相続が正式に決定。
栄一は深く失望し、やる気を失ったといいます。
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栄一は「なんとかこの場所を去る方法はないか」と考えるようになりました。
ナポレオン三世からの招致
そんな折、将軍宛にフランスから書簡が届きます。
差出人は皇帝・ナポレオン三世でした。
「1867年にパリで万博を開催するため、世界各国の元首を招待している。日本にも出品と招待の受諾をお願いできないか」
駐日フランス大使・ロッシュの勧めもあり、幕府は公使団の派遣を決意。
当時まだ14歳だった徳川昭武(慶喜の異母弟)を将軍代理として異国へ向かわせることにします。
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幕府の狙いは
・フランスとの関係強化(主に軍備増強のため)
・幕府の国際的な地位向上
・長期留学を前提とした昭武の教育
などがありました。
このころ幕府はフランスと友好関係を築き、薩摩がイギリスと手を結んでいたのです。
栄一に白羽の矢
いざ派遣は決めたものの、問題はどうやって昭武を送り出すか?
当初、江戸幕府は、昭武ら一団の長期留学を想定しており、大勢の随行員をつけることはできない。
そこで水戸藩士を7名ほど選出したものの、彼らはみな洋学の素人でした。
しかも水戸学の影響か。外国人を「やつらは野蛮人だ」と考えるフシがあり、とても安心して任せられません。下手すりゃ喧嘩を売りにいくようなものです。
困った家臣団が慶喜にそう伝えたところ、こんな返事がかえってきました。
「栄一がこの任務にふさわしいのではないか?」
会計能力に長けた栄一。かつてはコテコテの攘夷派でしたが、その考えを転換できる柔軟性は持ち合わせている。
しかも本人も環境の変化を望んでいただけに願ったり叶ったり!
その場で依頼を受諾すると、栄一は郷土で出立の準備を手早く済ませます。
そして慶応2年(1866年)12月29日、フランス船に乗り込み、異国を目指すのでした。
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