龍造寺隆信

龍造寺隆信/wikipediaより引用

戦国諸家

龍造寺隆信の生涯|島津や大友と覇権を競い「肥前の熊」と呼ばれた戦国大名

2025/03/23

大友家や島津家と戦国九州の覇権を競い合い「肥前の熊」とも呼ばれたりする――。

天正12年(1584年)3月24日は九州肥前の戦国大名だった龍造寺隆信が亡くなった日です。

沖田畷の戦いで島津勢の罠にかかり、一国の大名が戦場で討ち取られるという失態を演じたため、いささか評価の低い方だったりしますが、果たしてそれだけで考えてよいものか?

実は、反乱だらけの国内をまとめあげ、九州の一大勢力にまで築き上げた。

龍造寺隆信/Wikipediaより引用

龍造寺隆信の生涯を振り返ってみましょう。

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眼光炯々と評された龍造寺隆信

龍造寺隆信は享禄2年(1529年)2月15日、龍造寺周家の長男として誕生しました。

母は慶誾尼(けいぎんに)。

龍造寺家の家督を継承しながら早逝してしまった龍造寺胤和(りゅうぞうじたねかず)の娘です。

つまり「母は当主筋の生まれ」である一方、父は宗家ではなく「水ヶ江龍造寺氏」と呼ばれる一門の諸派。

本来であれば隆信も重臣として龍造寺宗家を支える立場でした。

※隆信が生まれた水ヶ江城跡の隣に生誕の地があります

出生当時の隆信は、龍造寺宗家の後継ぎとして育てられたわけではなく、天文4年(1535年)に出家しています。

寺入りを勧めたのは、曽祖父の龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)でした。

家兼は、隆信と同じように水ヶ江龍造寺氏の生まれながら、宗家を超える権力を掌握し、龍造寺躍進の礎を築いた人物です。

そんな曽祖父の血を受け継いだのでしょうか。

寺入りした隆信は、豪覚和尚(龍造寺一族出身)の弟子として修業に明け暮れ、幼少期はその才覚を高く評価されていました。

容貌雄偉、眼光炯々

体格に恵まれ、物事を見通す力にも優れている

そんな風に語られ、幼いながらに『平家物語』をよく理解していた聡明さが、家兼にも認められていたと伝わります。

いわば「品格・頭脳・力量」の三拍子揃った、龍造寺一族のホープ的存在。

しかし当時は、このまま僧侶として生涯を終える可能性も否定できない――そんな状況でした。

 


主君の謀略にかかり一族殺害

天文14年(1545年)、龍造寺隆信17歳のとき、龍造寺一族の運命を左右する一大事件が発生します。

このころまだ少勢力であった龍造寺家は、鎌倉時代から九州北部を支配する少弐(しょうに)氏一族に仕える立場にありました。

龍造寺家兼と少弐家は固い信頼関係で結ばれていたのです。

少弐氏の家紋「寄懸り目結」/wikipediaより引用

しかし、徐々に中国地方の有力者・大内家の勢力に押されるようになると、衰退の原因を「龍造寺の働きが悪いせいだ」と責任転嫁されていくようになります。

特に、少弐家の一門である馬場頼周が、この機に乗じて龍造寺家を蹴落とそうと謀略を駆使。

当主である少弐冬尚(しょうにふゆひさ)へ

「アイツら、大内家と内通して少弐から独立しようとしてますよ」

と吹き込みました。

頼周の言葉を真に受けた冬尚は、天文14年(1544年)の冬、龍造寺家討伐の準備と謀略を画策します。

有馬晴純に依頼して少弐家への反乱を偽装させ、家兼に「有馬に謀反の意思があるので、出陣せよ」と命じたのです。

何も知らない家兼はさっそく出陣し、有馬攻略に着手しましたが、初めから仕組まれていた戦ではどうすることもできません。

結果、龍造寺一門の大半が戦死し、さらに陰の首謀者である馬場頼周に水ヶ江城を包囲されてしまいました。

頼周はさらに一策を講じ、家兼にこう告げます。

「龍造寺が大内と内通していると言う者が家中にいる。

貴公は先の戦でも敗れた。

この二点について殿がお怒りで、龍造寺を滅ぼそうとしている。

ただ、今から城を去って早急に詫びを入れれば、なんとか許しが得られるだろう」

家兼としてはその言葉を信じるしかなく、子や孫を連れて謝罪のため城を出ていきました。それこそが頼周の思う壺とは知らず……。

謝罪のため少弐冬尚のもとへ向かったのは隆信の父・龍造寺周家を含む龍造寺一門の面々。

彼ら6名は無残にも殺害されてしまいました。

馬場頼周はその首を踏みつけたうえで計略の成功を喜び、水ヶ江城は冬尚によって没収されます。

しかし、このまま黙って終わる家兼ではありませんでした。

事ここに至り計略を知った家兼は、没収された水ヶ江城を実力行使で奪い返すと、一家を危機に追いやった頼周の首を刎ね、一族の無念を晴らすのです。

 

家督を継ぎ大内氏を頼ろうとしたら

眼前の危機はどうにか乗り越えた龍造寺家。

依然として緊急事態であることに変わりはありません。

一門衆は数多く殺害されてしまい、一族全体の後継者が不足してしまっていたのです。

さらには、龍造寺の看板を背負ってきた家兼も、天文15年(1546年)には93歳となり、日に日に衰弱が目立っていきました。

年齢からして当然のことで、家兼は、死に際して次のような遺言を残します。

「隆信は性倜儻(てきとう:才気がはるかに優れているの意)にして大器を有す。向後当家を興すのは彼の者である。時をもって還俗させよ」

これには家臣らも迷いながら、最終的には龍造寺隆信を水ヶ江龍造寺氏の後継者に指名します。

後継者の決定に際しては、一族の神社である龍造寺八幡宮で三度くじを引き、いずれも「隆信」という結果だったという伝説が残されているほど。

まるで、クジ将軍こと足利義教の六代就任を思わせるものですが、

足利義教/wikipediaより引用

話半分で見ても、とにかく隆信が歴史の表舞台に登場したことは間違いありません。

この頃の隆信は、運にも恵まれていました。

水ヶ江龍造寺氏の当主となってから2年後の天文17年(1548年)。

龍造寺宗家の当主・龍造寺胤栄が後継ぎを残さないまま亡くなり、宗家の家督も継承することとなったのです。

当時の隆信はちょうど二十歳。

良くも悪くも戦国大名らしい豪胆で荒々しい性質だったとされ、一族の恨みである少弐家に敵意をむき出しにし、まだ肥前すら統一できない状態で中国・四国地方への進出を目指したといいます。

こうした姿勢は必ずしも全ての家臣団に受け入れられません。

「まだ若いからそんなトンデモないことが言えるんだよw」と冷笑され、特に別の後継者(龍造寺鑑兼)を推していた老臣・土橋栄益は反感を強めました。

そこで隆信はどうしたか?

大内義隆と結びつき、家臣の不満を抑え込もうとします。

大内義隆/wikipediaより引用

中国地方に数カ国の勢力を有している大大名であり、この時点では同エリアへ進出するよりはるかに現実的な選択肢でした。

しかし、ここで思わぬ事件が起きてしまいます。

大内義隆が家臣である陶晴賢のクーデターによって殺害されてしまうのです。

いきなり当てが外れ、窮地に追い込まれた隆信。

その姿を老臣・土橋栄益は見逃しませんでした。

 

家臣のクーデターで筑後へ追われ

土橋栄益はひそかに大友家と手を結びました。

同じく九州北部に大きな勢力を持つ大友義鎮(大友宗麟)。

大友宗麟こと大友義鎮/wikipediaより引用

龍造寺鑑兼を担ぎ出したい栄益は、大友の援護を得て、近隣の諸勢力に隆信討伐を呼びかけたのです。

もともと厚い支持を受けていたわけではない龍造寺隆信に反発する勢力は思いのほか多く、栄益は十分な戦力を得て挙兵に至ります。

天文20年(1551年)に水ヶ江城と佐嘉城を包囲。

周辺との連絡手段を断絶された隆信や譜代の家臣らは絶体絶命の危機に追い込まれました。

もはや突破は無理だ――。

そう悟った隆信は、やむなく城を放棄して、敵に発見されないよう隠れて陣中を進みます。

そうして命からがら危機を脱した一行は、筑後の蒲池鑑盛という人物に庇護され、異国で再起の時を待つことにしました。

一方、勝利を手にした栄益は、目論み通りに鑑兼を佐嘉城主に据え、隆信の所領を家臣らに分け与えて新たな国づくりに着手します。

隆信は筑後でかなり厚遇されたようですが、野心あふれる性格の持ち主が逃亡生活を受け入れられるはずもなく、天文21年(1552年)には佐嘉城の奪還を目指して同志へ呼びかけを行います。

隆信の誘いに応じた勢力もいくつかあり、彼は早速、船で肥前へ。

このときは天候にも嫌われ、目的地へ辿り着くことできないまま撤退を余儀なくされます。

しかし、これで諦める隆信ではありません。

翌年(天文22年・1553年)、同じく船を用いて肥前へ上陸して、挙兵!

いつの間にか規模の膨らんだ隆信軍は連戦連勝で城を落とし、この勢いを恐れた佐嘉城代の小田政光は一族の居城である蓮池城へと撤退します。

城を取り返した隆信は、追撃の手を緩めはしません。

蓮池城に撤退した小田氏を攻め、熾烈な【蓮池城の戦い】に勝利すると、栄益以下の反乱分子を片っ端から粛清して家中の権力を掌握しました。

さらには周辺の諸勢力を従属させると、既に衰退の一途をたどっていた少弐家へ攻勢を強めます。

一族の恨みを晴らさんとする隆信は、かつて掲げていた「少弐家の打倒」と「中国・四国への進出」を目指すため、肥前の統一に向けた戦いに明け暮れていくことになるのです。

 


毛利と同盟 少弐は滅亡

ついに家中をまとめ上げた龍造寺隆信。

当面の目標は肥前の統治であり、かつての主家であり、龍造寺一族を滅亡の危機に追い込んだ少弐家がターゲットとなりました。

弘治元年(1555年)、隆信は小弐冬尚の居城である勢福寺城を攻撃。

見事に勝利を収め、憎き冬尚を筑後へと追いやると、今度は、かねてから対立関係にあった肥前の有力者・神代勝利(くましろ かつとし)との戦でも勝利を収め、このまま連戦連勝で東肥前を手にするかに思えました。

しかし、討ち取るまではできなかった神代勝利が再び力を盛り返し、筑後から兵を率いて帰還すると、隆信らの前に立ちはだかります。

神代軍は山岳地帯での戦に長けた勢力でした。

隆信が神代攻略の拠点として押さえていた肥前春日山城を攻め落とされるなど、苦戦を強いられ、逆に神代が勢いをつけると、隆信はいったん攻略を中断しなければなりません。

すっかり停滞しそうになった戦線。

隆信も、このままではジリ貧になると考えたのでしょうか。

弘治3年(1557年)、陶晴賢を滅ぼした毛利元就と同盟を結びます。

毛利元就/wikipediaより引用

大内家滅亡の後、急激に中国地方で所領を拡大させていく毛利家は、確かに同盟相手として不足はありません。

しかし九州北部では、依然として大友勢が強く、毛利のチョイスは当時のセオリーからは若干外れた選択となるでしょう。

隆信は、大友家が北九州覇権に奔走する隙を狙い、肥前統一に注力という決断をしたようです。

一方、神代勝利も黙ってはいません。

永禄元年(1558年)、勢福寺城で少弐家を再興させようとします。

そこで隆信は小田政光を派遣し、神代や少弐を討伐しようとしました。

ただし「まだ小田は龍造寺に降伏してから日が浅い」ため、裏切りを警戒し過ぎて、一切の援軍を送らないという処断。

結果、政光らは壮絶な討ち死にを遂げたうえ、伝わるところでは「政光を見捨てたために一族から恨みを買うといけない」ということで、なんと小田家が領有していた蒲池城を龍造寺が攻め滅ぼしてしまったとも――。

この手の軍記物などに描かれた記述を整理すると「隆信、最低だな……」と言いたくなります。

しかし、実際は「龍造寺家が滅びているため後世にデタラメを書かれた」という印象も否めません。

話を戻して永禄2年(1559年)、少弐冬尚が勢福原城への帰還を試みました。

城代の江上武種(えがみたけたね)は少弐派であり、時には龍造寺家と対決することもあったのですが、もはや決断したのでしょう。

冬尚の帰還を受け入れませんでした。

結果、途方に暮れた冬尚は自害を余儀なくされ、大名としての少弐氏は滅亡。

かつて龍造寺一族を裏切りによって滅ぼそうとした冬尚が、今度は当てにしていた支援者の裏切りで滅びたのでした。

 

大大名の大友氏が立ちはだかる

少弐氏が滅び、周辺勢力を次々に打倒――永禄4年(1561年)、33歳になった龍造寺隆信が次に向かったのは、長年、抗争を続けていた神代勝利です。

【川上峠合戦】と呼ばれる戦いで、両軍は激闘の末、一応、隆信の勝利ということで決着がつきました。

完全勝利ではなく、最終的には和睦というカタチだったのですが、東肥前をも呑み込む快挙であり、そんな隆信に対し、周辺大名は危機感を抱いていきます。

その代表格が、大友義鎮(大友宗麟)でした。

大友宗麟こと大友義鎮/wikipediaより引用

名実ともに九州の覇者として君臨していた大友家は、かつて敵対していた土橋栄益も後ろ盾に頼ったことのある大大名。

彼らは「少弐時尚の弟、政興を復権させる!」という名目のもと諸将を集めます。

龍造寺家も、勢いでは負けてはいません。

周辺の大名である有馬・大村連合軍を撃破し、ついに大友と直接的な対決を迎えます。

永禄7年(1564年)、大友の後ろ盾を得た少弐政興が、東肥前へやってきました。

隆信は、討伐軍を差し向けますが、筑後の国衆から手強い抵抗にあい、いったん兵を引きます。

周辺エリアの諸将は、少弐政興を担ぎ出す宗麟に同調していました。

しかし、隆信にとっても心強い援軍がありました。

毛利家です。

かねてから対立していた大友家と毛利家の間では、このころ暗黙の停戦が成立していたのですが、両者は立花城という舞台を巡ってふたたび激突。

龍造寺にとっては望み通りの展開であり、毛利勢の睨みが利く中で、戦を進めることができたのです。

 


睨みを利かせていた毛利が撤退

永禄12年(1569年)、大友宗麟自らが出陣して龍造寺の本拠である佐嘉城に攻めかかりました。

大友陣営には立花道雪ら歴戦の猛将たちに加え、その巨大勢力に恐れをなした諸将が集結。

龍造寺隆信は毛利家からの救援を頼りに籠城戦を選択するしかありません。

立花道雪/wikipediaより引用

絶対的な兵力差の前に苦戦必至の隆信は、城の守りを固める傍ら城外戦を仕掛けるなど、まだまだ諦めてはいませんでした。

なんとか攻勢をしのいでいると、救いの一報がもたらされます。

毛利が大友の拠点を襲撃する――。

急遽、これに対応しなければならなくなった宗麟。

かくして大友家の襲撃をなんとか乗り切った龍造寺勢に対し、危機はまだまだ続きました。

毛利勢が立花城攻めに大軍を遣わしている隙を突き、毛利家の足下で「再興を目論んだ尼子勢が挙兵」したのです。

尼子の再興と言えば、戦国ファンにはお馴染みの山中鹿介ですね。

山中鹿之介(山中幸盛)/Wikipediaより引用

中国地方での話が九州の情勢にも強く影響していたとは意外かもしれません。

いずれにせよ尼子への対処に追われた毛利家は九州の戦線を離脱し、隆信は最大の後ろ盾を失ってしまいます。

結果、元亀元年(1570年)には再び佐嘉城を襲撃され、圧倒的な兵力差を前に絶体絶命の状況に追い込まれると、隆信は一か八かで城外戦に打って出ました。

小規模ながら勝利を収め、なんとか命を繋ぐ、苦しい展開。

苦々しいのは大友サイドも同様だったようで、なかなか城を落とせない体たらくに腹を立てた大友宗麟は、弟の大友親貞を中心とする兵を送り込み、決定的な打撃を与えようとしました。

いよいよ追い込まれた龍造寺軍で、士気高く具申したのが鍋島直茂です。

「もはや敵陣を奇襲するほか勝ち目はありません!」

夜襲とは、成功するからこそ後世に語られるものであり、敵に待ち構えられ失敗すれば撤退も難しく、同士討ちの危険性もあるリスキーな戦術。

それでも隆信は直茂の意見を受け入れ、わずかな手勢を率いて敵陣を奇襲しました。

後世で【今山の戦い】と称される戦いです。

鍋島直茂/wikipediaより引用

結果は大成功に終わり、龍造寺軍は、大友親貞以下の大半を討ち取るという多大な功績を挙げました。

後世で「九州戦国史を一変させた」と語り継がれるこの一戦、実態としてはあくまで局所戦であり、両家のバランスを左右するほどではなかったと言われます。

実際、敗戦の報を耳にした宗麟も、格段の動揺を見せなかったようです。

それでも戦が長期化して損害が大きくなったためでしょう。大友家は合議の末、龍造寺と和平という選択をします。

かくして隆信は、またもや人生最大の危機を乗り越えたのでした。

 

大友の脅威を取り去った龍造寺

大友軍を打ち破った龍造寺隆信は、その後、大友へなびいた勢力の一掃に力を入れました。

東肥前では前述の江上武種らを下し、敵対していた勢力を次々と吸収。

労なくして東肥前の完全掌握に成功します。

続いて西肥前にも進出し、地元国衆たちの勢力を着々と従えていきました。

さらに天正5年(1577年)には大村氏を、天正6年(1578年)には有馬氏を打ち破り、いよいよ一族の悲願であった肥前の統一を成し遂げます。

何度も絶体絶命の危機を乗り越え、ついに一国を制した隆信。

しかし青年期のエピソードからも「野心家」であることがわかる彼は、実質的な肥前国主に甘んじることを良しとしません。

次なる目標に、筑前・筑後の攻略を掲げます。

大大名の大友家を相手に勝算が無い――ワケではありませんでした。

というのも大友は天正6年(1578年)に【耳川の戦い】で島津相手に大敗を喫していたのです。

軍神とも思えるような働きをした島津家久を前に、大友の軍勢は散り散りになり、かつて味わったことのないほど大きなダメージ。

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隆信はその隙をついて大友領国を襲撃します。

大友領内で動揺した者も少なくなかったのでしょう。隆信に味方する勢力も多く、かつてあれだけ苦しめられた大友家に対し、龍造寺は完全な優位性を確立しました。

「大友王国」は脆くも瓦解。

龍造寺氏はようやく大友の勢力圏から完全に自立したうえ、戦国大名としても独り立ちしたとみなされています。

彼らは筑後をほぼ平定すると、続いて肥後にも攻め入り、その大半を勢力下に収めました。

隆信はその勢力から【五州二島の太守】を自称し、九州制覇に向けて歩みだそうとします。

 


晩年は離反とその粛清に明け暮れ、沖田畷に没す

急激な勢力の拡大に成功した龍造寺は、いつしか大友・島津と並んで【九州三強】と称されるまでに成長しました。

しかし、急な発展は、往々にして脆い一面も併せ持つもの。

龍造寺も例外ではなく、その領国支配に崩壊が迫っていました。

天正8年(1580年)、筑後の蒲池鎮並が謀反を企てます。

すぐさま龍造寺隆信は攻撃を選択しますが、鎮並はかねてから龍造寺と関係の深い勢力でもあり、最終的には龍造寺側の説得に折れる形で矛を収めます。

この時期すでに隆信は隠居状態である一方、彼の人格面に変化が表れてきたという指摘もされます。

隆信の書状からは明らかに弛緩している雰囲気が漂い、地位を得たことによる慢心が生まれたと考えられているのです。

龍造寺隆信/Wikipediaより引用

隆信は、やがて迷走していきました。

天正9年(1581年)、先に登場した鎮並が再び隆信を裏切ろうとし、事前にそれを察知した隆信は、鎮並を呼び出し殺害しようと企てます。

いわば騙し討ちであり、結果は成功。

しかし、その卑劣な方法が世間から非難を浴びました。

龍造寺四天王の一角である百武賢兼は「この一件は家の滅亡につながる」と嘆き、さらに隆信が鎮並の一族郎党を抹殺したことが、筑後の諸将に大いなる反感を植え付けてしまうのです。

筑後の国人による反乱が相次ぎ、隆信はその制圧に労力を奪われました。

南からは九州覇権を志す島津が北上の構えを見せており、龍造寺家とも一触即発の空気が流れていました。

 

沖田畷の戦い

天正10年(1582年)、龍造寺と島津の間で和議が成立しました。

しかし、先に制圧していた島原の有馬氏が島津に内通すると、隆信は彼らの制圧を決断します。

鍋島直茂の制止も聞かず、自ら出陣して有馬勢の拠点へ。

この頃にはでっぷり肥えていたと伝わる隆信は、有馬氏の救援に向かった島津の援軍と合わせても、敵が小規模なことに慢心して無茶な攻撃を仕掛けたと言われます。

一説には

龍造寺25,000
vs
島津&有馬6,000

というもので、兵力差は圧倒的。

確かに兵数だけを考えれば龍造寺が圧倒的に有利な展開でした。

いわゆる【沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)】です。

鷹揚と進軍する龍造寺に対し、事前に入念な逆転策を練っていた島津・有馬軍は、敗北による撤退を装って龍造寺軍を狭路に誘い出します。

いわゆる島津のお家芸【釣り野伏】です。

戦闘で負けたをフリして敵軍をおびき寄せ、伏兵で一気に遅いかかるというこの戦法。

仕掛ける島津軍にしても、囮は命掛けの戦術であり、博打要素も否定できない。

さて、その結果は……。

島津の囮を追いかけ、身動きがとりづらくなった龍造寺軍。

一方、狭路の脇に伏兵を潜ませていた島津軍は、突如、龍造寺に襲いかかり、猛攻を仕掛けました。

大軍はたちまち総崩れとなり、人数の多さがあだとなった龍造寺軍は、退却すらも困難になってしまいます。

パニック状態に陥った龍造寺軍。

ついには指示も通らなくなったのでしょう、隆信は呆気なく討ち取られ、56歳の生涯を終えるのです。

【五州二島の太守】と称した隆信も、最期はあまりに唐突なものでした。

沖田畷における龍造寺隆信の行動は、気持ちの緩みが散見されます。

晩年の書状は、やはり慢心が見られたと指摘。

その死に際から、後世での評価は決して高くありません。

しかし、実質的に一代で一族の悲願である肥前統一を成し遂げたばかりではなく、【五州二島の太守】を名乗るだけの勢力を獲得したその武勇は、もっと語り継がれてもよいのではないでしょうか。

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【参考文献】
『国史大辞典』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon
三池純正『九州戦国史と立花宗茂』(→amazon
川副義敦『戦国の肥前と龍造寺隆信』(→amazon

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とーじん(齊藤颯人)

上智大学文学部史学科卒。 在学中から歴史ライターおよびブログ運営者として活動し、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」や古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 各メディアで記事執筆を行うほか、映画・アニメなどエンタメ分野の歴史分析も手がける。専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広い関心を持つ。 2023年にはサンクチュアリ出版より『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』を刊行。元Workship MAGAZINE 3代目編集長。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032655935

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