大友家や島津家と戦国九州の覇権を競い合い、「肥前の熊」とも呼ばれたりする――。
天正12年(1584年)3月24日は九州肥前の戦国大名だった龍造寺隆信が亡くなった日です。
沖田畷の戦いで島津勢の罠にかかり、一国の大名が戦場で討ち取られるという失態を演じたため、いささか評価の低い方だったりしますが、果たしてそれだけで考えてよいものか?
実は、反乱だらけの国内をまとめあげ、九州の一大勢力にまで築き上げた。
龍造寺隆信の生涯を振り返ってみましょう。
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眼光炯々と評された龍造寺隆信
龍造寺隆信は享禄2年(1529年)2月15日、龍造寺周家の長男として誕生しました。
母は慶誾尼(けいぎんに)。
龍造寺家の家督を継承しながら早逝してしまった龍造寺胤和(りゅうぞうじたねかず)の娘です。
つまり「母は当主筋の生まれ」である一方、父は宗家ではなく「水ヶ江龍造寺氏」と呼ばれる一門の諸派。
本来であれば隆信も重臣として龍造寺宗家を支える立場でした。
実際、出生当時の隆信は、龍造寺宗家の後継ぎとして育てられたわけではなく、天文4年(1535年)に出家しています。
寺入りを勧めたのは、曽祖父の龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)。
家兼は、隆信と同じように水ヶ江龍造寺氏の生まれながら、宗家を超える権力を掌握し、龍造寺躍進の礎を築いた人物でした。
そんな曽祖父の血を受け継いだのでしょうか。
寺入りした隆信は、豪覚和尚(龍造寺一族出身)の弟子として修業に明け暮れ、幼少期はその才覚を高く評価されていました。
容貌雄偉、眼光炯々
体格に恵まれ、物事を見通す力にも優れている
そんな風に語られ、幼いながらに『平家物語』をよく理解していた聡明さが、家兼にも認められていたと伝わります。
いわば「品格・頭脳・力量」の三拍子揃った、龍造寺一族のホープ的存在。
しかし当時は、このまま僧侶として生涯を終える可能性も否定できない――そんな状況でした。
主君の謀略にかかり一族殺害
天文14年(1545年)、龍造寺隆信17歳のとき。
龍造寺一族の運命を左右する一大事件が発生します。
このころまだ少勢力であった龍造寺家は、鎌倉時代から九州北部を支配する少弐(しょうに)氏一族に仕える立場にありました。
龍造寺家兼と少弐家は固い信頼関係で結ばれていたのです。
しかし、徐々に中国地方の有力者・大内家の勢力に押されるようになると、衰退の原因を「龍造寺の働きが悪いせいだ」と責任転嫁されていくようになります。
特に、少弐家の一門である馬場頼周が、この機に乗じて龍造寺家を蹴落とそうと謀略を駆使。
当主である少弐冬尚(しょうにふゆひさ)へ
「アイツら、大内家と内通して少弐から独立しようとしてますよ」
と吹き込みました。
頼周の言葉を真に受けた冬尚は、天文14年(1544年)の冬、龍造寺家討伐の準備と謀略を画策します。
有馬晴純に依頼して少弐家への反乱を偽装させ、家兼に「有馬に謀反の意思があるので、出陣せよ」と命じたのです。
何も知らない家兼はさっそく出陣し、有馬攻略に着手しましたが、初めから仕組まれていた戦ではどうすることもできません。
結果、龍造寺一門の大半が戦死し、さらに陰の首謀者である馬場頼周に水ヶ江城を包囲されてしまいました。
頼周はさらに一策を講じ、家兼にこう告げます。
「龍造寺が大内と内通していると言う者が家中にいる。
貴公は先の戦でも敗れた。
この二点について殿がお怒りで、龍造寺を滅ぼそうとしている。
ただ、今から城を去って早急に詫びを入れれば、なんとか許しが得られるだろう」
家兼としてはその言葉を信じるしかなく、子や孫を連れて謝罪のため城を出ていきました。
それこそが頼周の思う壺とは知らず……。
謝罪のため少弐冬尚のもとへ向かったのは隆信の父・龍造寺周家を含む龍造寺一門の面々。
彼ら6名は無残にも殺害されてしまいました。
馬場頼周はその首を踏みつけたうえで計略の成功を喜び、水ヶ江城は冬尚によって没収されます。
しかし、このまま黙って終わる家兼ではありませんでした。
事ここに至り計略を知った家兼は、没収された水ヶ江城を実力で奪い返すと、一家を危機に追いやった頼周の首を刎ね、一族の無念を晴らすのです。
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