低い身分の出自であり、体格も貧相だったとされる豊臣秀吉。
それに対し、生まれながらのプリンスであり、恵まれた体躯を持っていたとされる豊臣秀頼とは一体どんな人物だったのか?
2023年の大河ドラマ『どうする家康』では作間龍斗さんが演じ、2016年『真田丸』では中川大志さんの凛々しい姿が大きな話題にもなりました。
同時に彼は、母の淀殿と共に大坂の陣に散る、悲劇の母子としても知られます。
ご存知の通り、徳川家康に追い込まれて最期を迎えるわけですが、実際問題、秀頼にはそれ以外の生きる道は残されていなかったのでしょうか。
生き残る可能性があるならば、どうすればよかったのか。
慶長20年(1615年)5月8日はその命日。
豊臣秀頼の生涯を振り返りながら、散り際を考察してみましょう。
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兄・豊臣鶴松
義父・柴田勝家と母・お市の方が自害した北ノ庄城から脱出し、秀吉の庇護下に入った浅井茶々。
天正16年(1588年)に懐妊した彼女は、淀城で男子を産みました。
捨てた方が丈夫に育つとされるため「捨(棄)」と呼ばれ、あるいは武運を願って「八幡太郎」ともされた、豊臣政権にとって待望の男子。
この産所の名を取り、茶々は「淀殿」と呼ばれるようになります。
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当時【小田原の陣】にいた秀吉は、北政所に手紙を送り、その様子を気にかけていたことが伝わります。
しかし、生まれた子は病弱で、天正19年(1591年)には淀城で夭折してしまいました。
この悲劇の影には、意地の悪い世間の見方も見え隠れします。
淀殿が懐妊した際、不届な落首があったとされ、番衆17人が処刑されたのです。
当時から秀吉は「子種がない」と噂され、そうした状況をからかわれたのではないかとされています。
いずれにせよ秀吉は天から地へ叩き落された気分だったでしょう。
しかし事態は思わぬ方向へ。
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秀吉と淀殿の第二子として生まれる
文禄元年(1592年)末、淀殿は名護屋にいました。
朝鮮出兵のため肥前の拠点に出向いていた秀吉に伴われて現地入りしていたのですが、このころ淀殿は再び懐妊。
大坂城へ戻ったと推察されます。
そして文禄2年8月3日(1593年8月29日)、彼女は第二子を産みました。
名前は「拾(ひろい)」――無事に育つように一度捨てられてから拾われ、という意味があり、後に豊臣秀頼となります。
父の秀吉は57歳であり『これが最後の男子である』という思いは当然あったでしょう。
望外に授かった子供は、豊臣政権にとっては暗い影を落とすことになります。
どれだけの側室を抱えても一向に子供ができなかった秀吉は実子による継承を諦め、従兄の豊臣秀次を養嗣子として、関白の地位も譲っていました。
いわば
豊臣秀吉
│
豊臣秀次
という既定路線が引かれていたのですが、秀頼の誕生により後継者に「待った」がかかってもおかしくない状況となったのです。
と言っても、すぐさま秀次を排除してしまえ、というように単純な話でもありません。
兄の「捨(棄)」が幼くして亡くなったように、当時な夭折の多い時代であり、秀頼が無事に育つかどうかも不明。
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秀吉にしても協調路線を考えていたのでしょう。秀頼が誕生すると、すぐに秀次の姫と婚約させています。
つまりは一方的に排除するなどではなく、
豊臣秀吉
│
豊臣秀次
│
豊臣秀頼
という順番を構想していたのでしょう。
しかし文禄4年(1595年)7月、思いもよらぬ事件が起きます。豊臣秀次が突如関白職を辞し、自刃してしまったのです。
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今もってその動機は不詳ながら、ともかくこの一件に激怒した秀吉は、秀頼と婚約していた姫君を含め、秀次の妻子を大量処刑することにしました。
京雀たちは胸が潰れそうな思いを抱きながら、三条河原へ連れて行かれる女性と子どもたちを見守り、処刑を実行する武士たちは、母の目の前でその子供を斬るときに涙を堪えきれず……。
落首などが見つかれば命すら危うい。それでも非情な秀吉に我慢ならなかったのでしょう。京雀たちは「こんな世は続くまい」と書き残します。
しかもこの事件は、秀頼の地位を安泰にするどころか、暗い影を落とします。
豊臣秀次と親しいとされた大名たちの中には、徳川家康の嘆願で処罰を免れたものもいました。
彼らは豊臣へ敵意をいだき、徳川に接近してゆく――秀吉は、秀頼を溺愛すると同時に敵対勢力を生み出してしまったのです。
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