慶長20年(1615年)5月8日は豊臣秀頼の命日です。
誰もが知る豊臣秀吉の跡取りであり、母の淀殿と共に大坂城で滅びてしまった最期は説明するまでもありませんが、それまでは一体どんな人物でどんな暮らしを送っていたのか。
生き残る可能性があるならば、どうすればよかったのか。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
大坂の陣による悲劇の落城ばかりに注目が集まり、意外と知られていない――豊臣秀頼の生涯を振り返ってみましょう。
夭折した兄の豊臣鶴松
義父・柴田勝家と母・お市の方が自害した北ノ庄城から脱出し、秀吉の庇護下に入った浅井茶々。
天正16年(1588年)に懐妊した彼女は、淀城で男子を産みました。
捨てた方が丈夫に育つとされるため「捨(棄)」と呼ばれ、あるいは武運を願って「八幡太郎」ともされた、豊臣政権にとって待望の男子・豊臣鶴松。

豊臣鶴松/wikipediaより引用
この産所の名を取り、茶々は「淀殿」と呼ばれるようになります。
当時【小田原の陣】にいた秀吉は、北政所に手紙を送り、その様子を気にかけていたことが伝わります。
しかし、生まれた子は病弱で、天正19年(1591年)には淀城で夭折してしまいました。
この悲劇の影には、意地の悪い世間の見方も見え隠れします。
淀殿が懐妊した際、不届な落首があったとされ、番衆17人が処刑されたのです。
当時から秀吉は「子種がない」と噂され、そうした状況をからかわれたのではないかとされています。
いずれにせよ秀吉は天から地へ叩き落された気分だったでしょう。
しかし事態は思わぬ方向へ。
秀吉と淀殿の第二子として生まれる
文禄元年(1592年)末、淀殿は名護屋にいました。
朝鮮出兵のため肥前の拠点に出向いていた秀吉に伴われて現地入りしていたのですが、このころ淀殿は再び懐妊。
大坂城へ戻ったと推察されます。

淀殿/wikipediaより引用
そして文禄2年8月3日(1593年8月29日)、彼女は第二子を産みました。
名前は「拾(ひろい)」――無事に育つように一度捨てられてから拾われ、という意味があり、後に豊臣秀頼となります。
父の秀吉は57歳であり『これが最後の男子である』という思いは当然あったでしょう。
望外に授かった子供は、豊臣政権にとっては暗い影を落とすことになります。
どれだけの側室を抱えても一向に子供ができなかった秀吉は実子による継承を諦め、従兄の豊臣秀次を養嗣子として、関白の地位も譲っていました。
いわば
豊臣秀吉
│
豊臣秀次
という既定路線が引かれていたのですが、秀頼の誕生により後継者に「待った」がかかってもおかしくない状況となったのです。
と言っても、すぐさま秀次を排除してしまえ、というように単純な話でもありません。
兄の「捨(棄)」が幼くして亡くなったように、当時な夭折の多い時代であり、秀頼が無事に育つかどうかも不明。
秀吉にしても協調路線を考えていたのでしょう。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
秀頼が誕生すると、すぐに秀次の姫と婚約させています。
つまりは一方的に排除するなどではなく、
豊臣秀吉
│
豊臣秀次
│
豊臣秀頼
という順番を構想していたのでしょう。
しかし文禄4年(1595年)7月、思いもよらぬ事件が起きます。豊臣秀次が突如関白職を辞し、自刃してしまったのです。

豊臣秀次/wikipediaより引用
今もってその動機は不詳ながら、ともかくこの一件に激怒した秀吉は、秀頼と婚約していた姫君を含め、秀次の妻子を大量処刑することにしました。
京雀たちは胸が潰れそうな思いを抱きながら、三条河原へ連れて行かれる女性と子どもたちを見守り、処刑を実行する武士たちは、母の目の前でその子供を斬るときに涙を堪えきれず……。
落首などが見つかれば命すら危うい。それでも非情な秀吉に我慢ならなかったのでしょう。京雀たちは「こんな世は続くまい」と書き残します。
しかもこの事件は、秀頼の地位を安泰にするどころか、暗い影を落とします。
豊臣秀次と親しいとされた大名たちの中には、徳川家康の嘆願で処罰を免れたものもいました。
彼らは豊臣へ敵意をいだき、徳川に接近してゆく――秀吉は、秀頼を溺愛すると同時に敵対勢力を生み出してしまったのです。
関ヶ原は秀頼忠臣ナンバーワン決定戦
文禄5年(1596年)5月13日、豊臣秀頼は初めて上洛を果たし、豊臣朝臣藤吉郎秀頼となります。
もはや長く生きられぬと悟ったのか。
秀吉は、秀頼を支えるべく、五大老・五奉行による政治体制へ変えてゆきます。
それから二年後の慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、秀頼は豊臣家を継ぎ、伏見城から大坂城へ移りました。
しかし、五大老の徳川家康が公然と秀吉の遺命を軽んじるような行動を起こし、それに歯止めをかけていた前田利家が亡くなると、ますます抑えが利かなくなってゆきます。
慶長5年(1600年)、徳川家康は会津の上杉景勝を攻めるため、北へと出陣。
その間、専横を強める家康打倒のため、毛利輝元、石田三成らが挙兵しました。
秀頼は、このとき毛利輝元の庇護下に置かれています。

毛利輝元/wikipediaより引用
東西両軍の対決は、どちらが秀頼の忠臣であるか?という名目で競い合っていて、家康と三成、どちらが勝とうと秀頼はその相手を忠臣と賞賛するしかありません。
結果はご存知、【関ヶ原の戦い】に発展し、家康率いる東軍が勝利をおさめました。
徳川家康、征夷大将軍となる
かくして豊臣一の忠臣とみなされた家康。
西軍についた大名たちを改易、あるいは石高を大幅に削ると、慶長8年(1603年)、自身が征夷大将軍として幕府を開きます。
豊臣秀頼は天下人でなく、大坂城に居住する65万石の大大名という扱い。
しかし同時に、秀頼の正室として、家康の孫で徳川秀忠の娘である千姫が大坂城に送られました。
そして将軍就任からわずか2年後の慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲り、徳川家の世襲を示すのです。
思い返せば織田家は、織田信長と、家督を譲った織田信忠が同時に討たれ、急速に力を失いました。
豊臣家は秀頼がまだ幼いうちに秀吉が亡くなってしまった。
後継者をスムーズに擁立できるかどうか――これは天下を取ると同等かそれ以上に難しく、重要とも言えるでしょう。
東の徳川家は、征夷大将軍であり武士の頂点に立つ一方、西の豊臣家はあくまで摂関として扱われた。
『吾妻鏡』を愛読していた家康は、鎌倉幕府以来の東国からの支配を確立してゆくのです。

徳川家康/wikipediaより引用
そして東西に分かれた体制は、この後も続いてゆきました。
二条城での会見と方広寺鐘銘事件
両家の関係にひびが入ったのは、慶長16年(1611年)のこと。
この年、後陽成天皇の譲位に際して家康が上洛すると、諸大名もこれに続きます。
このとき19歳となっていた豊臣秀頼は、織田有楽(信長の弟で秀頼の大叔父)を通して上洛を促され、家康は秀吉の遺児と二条城で面会を果たしたのです。
家康は何を思っていたのか……。
それから3年後の慶長19年(1614年)に【方広寺鐘銘事件】が起きます。
生前の秀吉は、戦乱で荒れ果てた京都に大仏を建立することを目指し、全国から金属を徴収しました。後世に【刀狩り】として知られる政策です。
しかし地震などの影響もあり、大仏再建は次代に持ち越されていた。
秀頼は寺社仏閣作りに注力しており、亡き父からの事業も平穏無事に終わるはずでした。
それが方広寺の梵鐘ができたことで暗転します。鐘銘文が不穏であると指摘されたのです。
有名な
国家安康
君臣豊楽
という文字ですね。

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」/wikipediaより引用
この二句のうち、前者は家康の「諱(いみな)」の間に文字が入っています。
後者は「豊臣を君として楽しむ」と読める。
弁明のため、片桐且元が家康のもとへ派遣され、淀殿も別途使者を送りました。
且元は彼なりのソフトランディング路線を提唱すると、これがかえって大坂方の不信感を募らせてしまいます。
そのせいで追い詰められた且元は大坂を去り、調停役が不在となってしまった。

片桐且元/wikipediaより引用
家康は激怒。
そして【大坂冬の陣】の戦端が開かれたのでした。
大坂の陣にて散る
なぜ【大坂冬の陣】なんていう大戦に発展してしまったのだろう。
豊臣秀頼の脇が甘かったのか。
それとも母の淀殿が情勢を読めず大坂方は自ら死地へ向かってしまったのか。
そこには個人の能力ではどうにもならない状況があったとも言えるでしょう。
【応仁の乱】以来、武力でことを収めてきた日本人は気性が非常に荒く、戦乱の世に戻りかねない危惧がありました。
豊臣秀吉の血を引く秀頼には、将兵を奮い立たせるカリスマもあります。

方広寺鐘銘事件においては不幸な行き違いもありましたが、とにかく血の気の多い浪人たちが、大要塞といえる大坂城に続々と集ってくる――そんな状況を江戸幕府が放置できるわけもありません。
かくして冬の陣が勃発し、一旦は講和に持ち込まれたものの、翌元和元年(1615年)に【大坂夏の陣】へ。
大坂城には火が放たれ、猛火のなかで秀頼は淀殿と共に命を落としました。
享年23。
秀頼の遺児である国松は処刑されました。
しかし女児は救出され、鎌倉東慶寺で出家し、天秀尼となります。

天秀尼/wikipediaより引用
東慶寺は女性にとってのアジール「駆け込み寺」として知られるようになります。
その一例が寛永16年(1639年)――会津藩主である加藤嘉明に耐えきれぬ家老・堀主水らが、主君を見限り、会津を旅立ちました。
堀主水は高野山に逃れましたが、嘉明の厳しい追及に耐えきれず、引き渡され、処刑されてしまいます。
一方、尼寺の東慶寺に逃げ込んだ堀主水の妻子はどうなったか?
というと、天秀尼は凛然と嘉明の要求を断り通しました。
豊臣の血は途絶え、家こそなくなりましたが、秀吉の孫は芳名を歴史に刻んだのです。
どうすれば秀頼は助かったのか?
豊臣家のプリンスである豊臣秀頼は結局死ぬしかなかったのか?
非業の死から逃れる術があるとすれば、どうすればよかったのか?
この顛末を目撃していた伊達政宗が、書状でこう振り返っています。
今月6日から7日にかけて戦があり、大坂方はみな負けた。
8日には秀頼とお袋が焼け残った土蔵に入って、腹を切ったと。
あのお袋も、口ほどもなく無駄死にしたわけよ。
政宗は口が悪く、ありのままのことを書き記します。秀頼に「公」をつけず呼び捨てにし、露骨に軽蔑しています。

伊達政宗/wikipediaより引用
実は政宗は、関ヶ原の後、秀頼が生き残るための提案をしていました。
豊臣家を存続させたいなら、いっそ家康のもとで秀頼を育てること――。
しかし、その意見が採用されずに滅亡したのだから、自業自得だと突き放しているのです。
「俺の予想した通りだろ」とでも言いたげな、政宗らしい心情も窺えますね。
豊臣家滅亡の当事者である秀頼は何度もフィクションに登場していますが、あくまで脇役としての出番に限られます。
滅びゆく家の当主として。
母の淀殿に頭のあがらぬ頼りない貴公子として。
真田幸村が掲げる大義として。
頼りない存在なのか、父譲りのカリスマがあるのか。
そこは作品ごとの解釈次第であり、『どうする家康』ではこう記されていました。
圧倒的なオーラを放つ、豊臣家の若きプリンス
「秀吉最愛の女性・茶々(淀君)の次男。秀吉亡きあと、豊臣家の復活の期待を背負う若きプリンス。二条城で成人した秀頼に対面した家康は、凛々しく聡明な彼の姿に、圧倒的な脅威を感じる。」
伊達政宗なら
「イケメンだろうがカリスマだろうが、徳川に目をつけられたらどうにもならん!」
とぶった斬るかもしれません。
今川氏真にせよ、武田勝頼にせよ、先代が残した失点を覆すのは難しく、結果、大名としては滅びの道を辿っています。
その滅びに至る道筋を描くことで、個人ではどうにもならなかったと示す解釈もできる。
大河ドラマ『真田丸』で中川大志さんが扮した秀頼は凛々しく、「今度こそ勝てるのではないか?」と放送当時は話題になったほどでした。
暗愚に描かれることの多かった秀頼像は、あの作品を転機に覆されたといってよいでしょう。
しかし、くどいようですが、秀頼の破滅は構造的欠陥から生じたと言える。
父が57歳の時に生まれた。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
物心つくかつかないかの段階で中継ぎだったはずの豊臣秀次が死に、その事件後の大量処刑で複数の大名から恨みを買った。
政宗の言うように、関ヶ原後は徳川に対して下手に出ていたらよかったのに、それすらしなかった。
父母の代からの負債が積み重なり、追い詰められたと言える。
当人の才や努力では、どうしようもなかったのかもしれません。
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参考文献
- 福田千鶴『淀殿―われ太閤の妻となりて(ミネルヴァ日本評伝選)』(ミネルヴァ書房, 2007年1月10日, ISBN-13: 978-4623048106)
出版社: ミネルヴァ書房(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族――天下人と謎に包まれた一族の真相(別冊歴史読本 13)』(新人物往来社, 2009年3月31日, ISBN-13: 978-4404036131)
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書誌: 国立国会図書館サーチ(コンパクト版書誌) |
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書誌: Gakken(公式商品ページ) |
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