明治三十八年(1905年)の7月31日、樺太の戦いが終結しました。
日露戦争における最後の戦闘ですね。
一般によく知られる日本海海戦は、同年5月27日、日本側が決定的な勝利をおさめていましたが、その後の講和交渉がうまくいかず、戦争自体は続いていたのです。
日本海海戦でバルチック艦隊を撃破! なぜ東郷平八郎と旧海軍は勝てたのか
続きを見る
交易中継地としてだんだん栄えると外国に付け狙われる
もともと樺太(サハリン)は北海道からも大陸からも近く、江戸時代以前から帰属がはっきりしていませんでした。
現在では石油や天然ガスの存在が確認されていますが、昔はそんなものわかりませんからね。
そんなわけで、さまざまな民族が来ていた割にどこも積極的に支配しようとしていなかったのです。
飛鳥時代に阿倍比羅夫が秋田や渡島(北海道)に船で遠征したときに戦った粛慎(しゅくしん)という民族と戦った場所が樺太では?なんて説もありますが、その後、モンゴル帝国や日本の僧侶など、多少の出入りがあっただけで移り住んだ人がほとんどいなかったようです。
もともと現地で生まれ育った人はいたでしょうけども。
しかし、江戸時代に入って幕府が北海道(蝦夷地)との交易その他を始めると、「蝦夷地の先にも島があるらしい。漁業なり何なりやろう」ということになり、それまでよりは積極的に手を出していきました。
同時期に清王朝の皇帝なども樺太の存在を認識し、商売上のトラブルやら勢い余った略奪やらが起きて物騒になっていきます。
人が増えると治安が悪くなるのは古今東西同じなんですね……イヤな話だ。
そして幕末にはロシアン紳士・プチャーチンと幕府側の担当・川路聖謨(としあきら)の間で「今まで通りにしときましょう」と平和的な解決がされましたが、その後【樺太・千島交換条約】という条約で「日本は千島列島(いわゆる北方領土とその北方に連なる群島)、ロシアは樺太を貰ってめでたしめでたしにしましょう」ということになりました。
その後も樺太には日本人の漁民などが住んでおり、現地では日露住民双方とも悪くない関係を築いていたようです。
それは日露戦争時も同じでした。
島ではロシア人も日本人も仲良くやっていたのですが
それを知ってか、日本軍のほうでも「樺太を無理に取らなくてもいいじゃないか。もうウチボロボロだし」ということになっていたのです。
が、一部のはねっかえりな人が「この前ウチが勝ったんだから、アイツらビビってるに決まってますって!ついでに取り返しちまいましょうぜ!!」と言い出し、お偉いさんの中でも「ちょっとでも講和交渉が有利になるかもしれませんから、いいんじゃないですか」ということになって樺太の戦いが始まってしまったのでした。
現地住民大迷惑です。
いつの戦争でもそうですけど。
ちなみに現地の日本人はロシア軍に「すいません、ウチら政府と関係ないので保護か引き上げを許可してもらえませんか」と頼み込んで、無事戦場になりそうなところからは脱出しています。よかったよかった。
高官の中には個人的に食料をくれた人もおり、涙の別れになったとか。ええ話や……。
樺太に南北きれいに
戦闘のほうは?
というと、ロシア側が小勢なのを逆手にとってゲリラ戦を展開したため、倍近い兵力差がありながら日本側は苦戦します。あーあ。
最終的にはロシアの長官が降伏して7月31日に戦闘終了。
ポーツマス条約で「樺太はロシアと日本で南北半分こね」ということになるので、無駄ではなかったのですけどね。
つまり一度樺太問題にはケリがついているのですが、今、日本で売られている世界地図で樺太が空白地帯になっているのはまた別の理由があります。
第二次大戦の際、ソ連と日本が最後に戦ったのがここで、さらにややこしい点が二つあるのです。
一つはサンフランシスコ講和条約。
この時点で日本は樺太の領有を放棄しているのですが、この条約にはソ連が調印していませんでした。
もう一つは、ソ連の後継国家であるロシアがこの路線を引き継いでいること。
つまり「日本とソ連及びロシアの間で樺太をどうするか」ということが明確に決まっていないのです。
現在はロシアが実効支配しているので、南側だけでなく樺太全体がロシア領扱いになっているのですけども、スッキリしねーよ!と考える人もわずかにいます。
日本政府的にも「北方領土問題に樺太は含めない」というスタンスのため、樺太について問題視されることはほとんどありません。
たぶん樺太を日本領にするためのメリット・デメリットからの政治的判断があるのでしょう。現地には資源もありますけどね。
とにかくまずは北方領土の返還から何とかしなければなりませんね。
簡単ではないことはわかっておりますが。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
樺太の戦い(1905)/wikipedia
樺太/wikipedia