肌の色だけでなく、極めて近い民族同士であっても、ちょっとした違いや経緯でお互い憎みあうということはザラで、頭に血の上った状態となれば尚更。
戦争中であれば、さらにエスカレートします。
1856年(日本は江戸時代・安政三年)10月8日。
アロー戦争中にイギリス・フランス連合軍が中国の名庭園「円明園」を略奪および破壊したこともその一例でしょう。
「なにそれひどい」という話ですが、まずはアロー戦争が何か?という点から見て参りましょう。
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不穏すぎる空気 猟奇的な殺人事件まで起き
アロー戦争は【第二次アヘン戦争】とも呼ばれます。
1840年のアヘン戦争と似たような経緯で起きたからです。
大雑把に言うと「アヘン戦争の戦後処理に不満を抱いていたイギリス・清国双方が再度モメて起きた戦争」という感じでしょうか。
戦後、両国は外交や商売に関する条約をいろいろ結んでいたのですが、十年以上経っていろいろ不都合が起き始めていました。
そこで条約改正の話が持ち上がり、だんだんキナ臭い雰囲気になっていきます。
市民の間でも、互いに「アイツらムカつく」という感情が強くなり、特に清の人からイギリス人やアメリカ人に対する暴力事件が頻発し始めました。猟奇的な殺人事件まで起きていますから、誰もが「このままで済むはずがない」と思っていたことでしょう。
”アロー”というのは、こうした揉め事の最たる例となってしまった船の名前です。
イギリスに籍を置いていたアロー号に対し、清の役人が取り調べを行い、うち三人を逮捕した上でイギリス国旗を引き摺り下ろした――という、外から見れば「これアカンやつや」としかコメントできない事件だったのです。
そんなくだらん理由で戦争できねーっつの
国旗は、国の顔同然です。
無礼を働くことは、相手国そのものを侮辱したも同じでした。
清の役人にプッツン来た英国のお偉いさんは、同じく滞在中のイギリス海軍を動かして抗議(物理)を始めます。
とはいえイギリス本国議会はそこまで瞬間湯沸かし器ではありません。
現地から「かくかくしかじかなんで増援お願いします!」という連絡が来ても「いやいやいやそんなくだらん理由で軍送れんわ」と突っぱねました。
しかし、です。
当時の首相は戦争賛成派だったので「そんなら選挙で国民に聞こうじゃないか!」と解散及び総選挙を行い、見事国民の支持を取り付けて本国軍の派遣を決定します。
ついでに色々やりとりのあったフランス皇帝・ナポレオン3世にも話を持ちかけ、援軍を引き出します。
この辺は外交上手というか「きたないなさすが海賊きたない」って感じですね。
殴っては話し合い 話し合っては殴り合い
2対1で戦争をおっぱじめた以上、当然、英仏軍余裕の完勝……かと思いきや、アヘン戦争の後にモンゴル人の将軍を採用するなど、一応、改革を試みていた清軍は頑強に抵抗します。
殴っては話し合い。
話し合っては殴り合いの繰り返しがしばらく続きました。
当然、英仏軍はイライラします。
兵を増やしたりデカい船を持ってきてもなかなかうまく行かず、交渉使節の一部が拷問された上で殺害されるという最悪の事件が起こり、ついにプッツン来てしまいました。
そんな彼らの目に映ったのが、清国きっての名園として当時有名だった円明園。
庭だけでなく、十二支の像など、中国文化の粋を集めたところで、文化財の保管庫などもあったそうです。
また、西洋建築を取り入れた部分もあり、それはそれは美しいところだったとか。
近代に入ってからはヨーロッパにもその美しさを紹介され、”レ・ミゼラブル”(ああ無常)の作者・ヴィクトル・ユゴーなどが大絶賛していました。
英語では”Old Summer Palace”といった雅称もついていたそうですから、新聞や学術誌で紹介されていたのでしょうね。
いかに清がボロクソにやられていたとはいえ、文明発祥の地の一つとして歴史と文化を伺わせる気品もあったことでしょう。
財宝を先に奪われた腹いせに建築物を軒並み破壊
しかし、アジア=後進国=野蛮人という認識が強かった当時のヨーロッパ人が、この状況でそんな美しいところに踏み入ったら、「有色人種のクセに生意気な!!」としか思えなかったであろうことは想像に難くありません。
ついでに上記のように散々手こずらされていますから、全軍丸ごと”おれの怒りが有頂天”状態。
その衝動が円明園に向かって炸裂します。
まずフランス軍が金目のものをあらかた略奪しました。
後からやってきたイギリス軍は、上記の経緯に加え、フランス軍に財宝を全て奪われた後だということに余計腹を立て、残された建築物を軒並み破壊してしまいました。
結果、かつての名園は見るも無残な廃墟と化してしまったのです。
ちなみに英仏軍、ここに至って仲間割れまでやらかします。
「イギリス人はなんて野蛮なんだ!」
「これだからフランス人はpgr」(※イメージです)
とお互いを罵りあっていたそうです。
当コーナーではイギリスのことを散々海賊紳士だの腹黒紳士だの言ってますが、こうしてみるとフランスも五十歩百歩ですね。
それとも”どんぐりの背比べ”をわかりやすく実演してくれたんですかね。
アロー号でキッチリ対応していれば法的に勝ってたのに・・・
その後、連合軍は首都北京を占領し、さらに無茶難題がいろいろと含まれた条約を清に押し付けます。
こうして清の半植民地化がますます加速していったのです。
文化財も領地も失うとか涙目ってレベルじゃない……。
ちなみに、事の発端となったアロー号は、当時イギリス船籍を名乗れる期限を過ぎていて、清側の対応は完全に合法的なものだったそうです。
つまり清がその辺をきっちり調べて「これが目に入らぬか! ウチが正義!!」と主張していれば。
イギリスとしてはこの件を発端とした戦争を起こすことはできなかった可能性が高くなります。
まあ、当時の世界情勢的にいずれ何かしらのイチャモンをつけて戦争をおっぱじめていただろうとは思いますけども、帝国主義ってなぁ……。
長月 七紀・記
【参考】
アロー戦争/wikipedia
円明園/wikipediaより引用