東の本多忠勝と並び、西の最強武将として畏怖される立花宗茂(むねしげ)。
寡兵で鬼の島津軍を破ったり。
文禄・慶長の役で活躍しすぎたり。
はたまたその活躍のせいで「外交的配慮から大河ドラマの主役になれないのでは?」と囁かれたり。
今なお戦国ファンをざわつかせる存在ですが、一般社会ではそう知られた武将ではなかったりもします。
例えば「戦国武将ランキング」なんかのテレビ番組があっても、TOP5を独占するのはいつも織田信長や真田信繁あたりで、宗茂については上位10人に入るケースも少ないでしょう。
これではあまりに悲しい……。
というわけで今回は寛永19年(1643年)11月25日が命日となる立花宗茂の功績・生涯をまとめました。
早速振り返ってみましょう。
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小さい頃から優秀すぎた立花宗茂
立花宗茂は永禄十年(1567年)、九州の雄・大友宗麟の家臣だった高橋紹運(じょううん)の長男として生まれました。
月日ははっきりしていませんが、伊達政宗や真田幸村(真田信繁)と同年だとされています。
この頃の大友家は九州でもかなり有力だった時代。
※以下は大友宗麟の生涯まとめ記事となります
戦国九州の王者か非道の暗君か?大友宗麟(義鎮)58年の生涯まとめ
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【耳川の戦い(1578年)】などを経て同家が下火になる前なので、宗茂も将来的には主家を支える人物として育てられました。しかし……。
小さい頃から優秀すぎた宗茂は、とある人物に目をつけられてしまいます。
同じ大友家臣の”雷親父”こと立花道雪。
この人については以前ご紹介していますので、よろしければ合わせてご覧ください。
鬼道雪と呼ばれ大友家を躍進させた立花道雪は何が凄い?勇将の下に弱卒無し!
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彼には跡取りになる息子がいなかったので、婿養子を取って家を継がせたいと考えていました。
そして日頃から付き合いのあった高橋紹運の息子が素晴らしい、という話を聞いて、ぜひ貰い受けたいと申し出たのです。
高橋家だって跡継ぎがいなければ困りますので、父・紹運は最初この話を断ります。
高橋紹運は「西国無双」立花宗茂の父なり~岩屋城での散り際凄まじき勇将だった
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ですが道雪がその程度で引き下がるはずもなく、繰り返し懇願されてついに承諾しました。気前いいな。
こうして宗茂は立花家に入ることになったのです。ちなみに高橋家は弟が継いで丸く収まりました。めでたしめでたし。
雷オヤジの半端なく厳しい教育で10代から大活躍
たぶん高橋家でもそれなりにしつけられていたと思うのですが、立花家に入ってからは”雷親父”の容赦ない教育が始まります。
それでも生来の気性なのか、心臓に毛が生えていたのか、宗茂は「お坊ちゃん気質」ともいうべきいい意味でののんきさを失うことはありませんでした。これはまた後述しますね。
初陣は14歳のときのこと。
実父と義父に後ろ盾されてではありましたが、翌年には城を一つ落とすほどの武将に成長しており、スパルタ教育の成果がうかがえます。
17歳の頃には遠征に向かう人々の留守を預かっていたりと、既に大友家中でも重きを成すようになっていました。
「のんき」とは書きましたが、彼も武将ですから締めるべきところはしっかり締めていて、謀反の兆しがあった家臣は容赦なく粛清しています。
この辺のギャップはまさに戦国時代の人という感じがしますね。
義父と実父を失い揺らぐ大友家
しかし、道雪が病死し、その翌年紹運が島津家との戦で華々しい討死を遂げると、大友家は少しずつ揺らぎ始めます。
前述のとおり大友家が耳川の戦いでボロ負けした上、
耳川の戦いで島津軍が九州覇者へ「釣り野伏せ」で大友軍を完膚なきまで叩き潰す
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道雪と紹運の二人を始めとした優秀かつ忠実な家臣が次々といなくなってしまったからです。
そのときの展開を四行でまとめるとこんな感じです。
①実父である高橋紹運の岩屋城と実弟の宝満城が島津3万の兵に囲まれて玉砕
②島津軍はそのまま立花城を包囲
③官兵衛らの秀吉軍が九州に渡海したために島津軍は包囲を解き熊本へ撤退
④宗茂は撤退する島津軍をわずか500の兵で追撃し、数百の首を取った上で岩屋、宝満の2城を奪還
苦しい状態の中で父の弔いと功績を挙げたことに対し、主・大友宗麟も感激したようで、豊臣秀吉へ
「ウチの宗茂は義理堅くて優秀なヤツですから、ぜひ直接召抱えてやってください」(超訳)
とまで言っています。
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