文治五年(1189年)9月3日、藤原泰衡が郎従に討たれ、奥州藤原氏は滅亡となりました。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場していましたね。
兄の藤原国衡相手には強気で凄む。
一方で鎌倉からの使者・北条義時が相手になると、当主とは思えない優柔不断さで、まるで縋りつくかのように助言を求める。
そして源義経攻めを決断――と、どうにも自主性のないキャラで「あんな調子じゃ鎌倉に騙されて当然だわ!愚将かよ」と思われるかもしれません。
では、実際のところはどうだったのか?
本稿では、藤原泰衡の生涯を振り返ってみましょう。
【奥州藤原氏】
初代:藤原清衡
二代:藤原基衡
三代:藤原秀衡
四代:藤原泰衡
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奥州藤原氏は故郷だった
そもそも義経が奥州へ逃げたのは、頼朝と合流する以前の青年期、奥州藤原氏を頼って平泉に住んでいたことがあったから。
義経は当主・藤原秀衡(ひでひら)の支援を受け、家臣や馬などをもらったりしました。
父親に会ったことがない義経としては、秀衡が父親代わりでもあったのでしょう。
敵だらけになってしまった時には、最後の砦にも思えたでしょう。
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秀衡は、頼朝から「京都に金(きん)や馬を送るときは、オレが仲介してやろう」という不躾な申し出を聞いており、心情的に鎌倉へは良い印象を持っておりません。
それまでだって、頼朝に仲介してもらわなくても直接京都へ運んでいたのです。
仲介を頼むということは、当然、手数料が発生。
そして、それは奥州藤原氏が源氏に臣従することを意味するも同然でした。
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当時の奥州は半ば独立国ですから、立場的にも面白いワケがありません。
しかし秀衡はいったん譲歩し、鎌倉へ馬と金を送りました。
むろん臣従はしたくありません。
そこへ「息子」だった義経が頼朝から追われて亡命してきたので、いよいよ「その時」だという可能性を考え、義経を匿いました。
義経を旗頭とすれば、武家源氏の血筋として十分。
それだけでなく平家を滅亡に追い込んだ義経は天才的な軍略家であり、兵力次第では鎌倉に勝てる可能性もあったかもしれません。
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しかし、栄華を極めた秀衡も寄る年波と病には勝てませんでした。
義経が奥州にたどり着いた文治3年(1187年)のうちに亡くなってしまうのです。
アイツは所詮よそ者じゃないか!
跡を継いだのが、次男の藤原泰衡(やすひら)でした。
奥州藤原氏には、長男の国衡(くにひら)もいましたが、側室の生まれだったため、正室を母に持つ次男・泰衡が優先されたのです。
ただし国衡は、秀衡の妻で泰衡の母(鎌倉殿の13人では“とく”)を妻とし、泰衡の義父というポジションについてます。
泰衡と国衡の兄弟仲がひどく悪かったため、秀衡が苦心の末、無理やり親子にしたんですね。
しかし、そんな書類上のことが大して意味ないことは明白であり……泰衡は、鎌倉からのプレッシャーに対し、徐々に耐え切れなくなっていきます。
そしてある日、こう言い出しました。
「父上は義経を助けろって言ってたけど、所詮よそ者じゃないか! アイツのせいでうちが滅びるぐらいなら、先に討ち取って頼朝の機嫌を取ったほうが良い!」
泰衡の決意に対し、藤原国衡と三男・藤原忠衡(ただひら)は唖然。
特に忠衡は猛反対します。
「いや、父上の遺言はきちんと守りましょう! うちを信用して頼ってきたような人を討ち取るとか正気か! この親不孝者!!」
しかし、元々仲の悪い兄弟だったので話し合いでは到底解決できません。
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その足で「もう義経はいないし、お前の居場所もねーから!」と忠衡まで討ち取ってしまうのでした。
頼朝に対する言い訳とか、過剰なまでにおもねった態度とも言えますね。
あるいは家中の統制かもしれませんが、いずれにせよ滅茶苦茶……。
そしてその結末は、泰衡の思惑とはまるで違う方向へ進んでいきます。
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