1810年(日本は江戸時代・文化七年)9月16日、メキシコ独立革命が始まりました。
メキシコといえばタコスやサボテン、お酒が好きな人にとってはテキーラあたりを連想されますかね。
日本史では、西洋との中継地点としてメキシコの名がたびたび出てきますね。
本日は、メキシコそのものの歴史をざっくり見てみたいと思います。
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紀元前8,000年頃からトウモロコシの栽培
メキシコには、かなり古い時代から文明が生まれていました。
推定2万年前と思われる遺跡が見つかっていますし、紀元前8,000年ごろには早くもトウモロコシの栽培が始まったといいます。
そして紀元前2世紀ごろには、テスココ湖という舌を噛みそうな名前の湖の東に、テオティワカンという大きな都市が築かれ、南にはクィクィルコというこれまた早口言葉のような都市があったといいます。
しかし、近隣の火山が噴火。
クィクィルコは壊滅してしまい、テオティワカンが経済・軍事ともに随一の存在になりました。
グアテマラのほうまで支配下に置いていたそうですから、かなりの力を持っていたことがうかがえますね。
また、最近の調査でテオティワカンにはウサギの養殖場があり、安定して食肉を生産していたらしきことがわかったそうです。
この時代、メキシコ近辺には大型哺乳類が生息していなかったため、他にタンパク源になるような動物はおりません。
そのため、ウサギの肉が食生活の重要な位置にあったと思われます。
英雄・テソソモクが現れ、後にアステカ帝国ができる
しかし、栄枯盛衰は世の習い。
テオティワカンも7世紀頃には廃れて破壊され、小さな都市が乱立する時代になりました。
やがて戦争・環境破壊による食糧難・気候の変化・流行病などによって、そういった都市も疲弊し、大きな国ができることなく時代が進んでいきます。
そして14世紀の後半に、テスココ湖の西にあったテパネカという国に英雄・テソソモクが現れました。
彼の傭兵だったアステカ族がテソソモクの死後にリーダーとなり、かの有名なアステカ帝国ができたのです。
アステカは、メキシコ中南部~南部を支配する大帝国へ成長しました。
また、アステカより少し北には、タラスカ王国という別の国があり、アステカと並び立つ存在だったとされています。
どちらもピラミッド型の神殿や大都市を築く建築技術、天文学や宗教、暦の発明、数学の発達がなされていた国でした。どれも関係がある学問ですよね。
ですが、その繁栄も長くは続きませんでした。
コロンブスによってアメリカ大陸が”発見”されると、アステカ帝国にも西洋人がやってきたのです。
アステカ文明の生贄儀式ってマジだったの?『ジョジョの奇妙な冒険』原点を探る
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スペイン人の侵略から2年でアステカ滅亡
1519年にスペイン人のエルナン・コルテスがメキシコへやってきたとき、皇帝モクテスマ2世は「神の化身がやってきた」と信じ、喜んで招き入れたといいます。
アステカの神・ケツァルコアトルが「白い顔の男」の姿でやってくるという伝説があったからです。
コルテスはアステカ帝国と敵対していた国を味方につけ、たった2年でアステカ帝国を滅ぼしてしまいました。
スペイン人が麻疹(はしか)や天然痘を持ち込んだことも、アステカ人が弱った原因だといわれています。これはコルテスの計算外だったでしょうけれども。
モクテスマの甥で最後の皇帝・クアウテモックは船で逃げようとしたところをスペイン軍に捕まり、処刑されてしまいました。
そして、アステカの首都テノチティトランは破壊され、今のメキシコ市の原型が作られます。この辺のお話は以前も取り上げましたので、気になる方はどうぞ以下の関連記事をご覧ください。
アステカ帝国 死のフラグ~神様ケツァルコアトルの正体は侵略スペイン人だった
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こうしてメキシコは「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領」として、中米地域のスペイン植民地の中心となりました。
人口は2500万人から100万人に減っていた
この時代、植民地になるということは、地上の地獄になるも同然。
相変わらず麻疹や天然痘などで多くの先住民が命を落とした上、スペイン人の苛政により、さらに人口が激減していきます。
推定で約2500万人が約100万人まで減ったというのですから、とんでもないペースですね。
スペイン本国は基本的に「植民地のことは現地で好きにやれ」という方針だったので、植民地政府がやりたい放題だったことも、悪い意味で相乗効果を与えたと思われます。
一昔前の時代劇によく出てきた悪代官みたいな感じでしょうか。
また、現地人とスペイン人の混血が進み、メスティーソと呼ばれる人々が増えていきます。
彼らが後々、メキシコの歴史の一翼を担うようになります。
一方で、西洋人側にもメキシコの窮状を憂える人はいました。
カトリックの司祭だったラス・カサスが、スペイン王室に植民地の窮状を訴えたのです。1550年には「バリャドリッド論争」と呼ばれる議論が交わされたものの、あまり改善はされませんでした。
1546年にサカテカスなどの銀山が発見されたことにより、メキシコはスペインの財政を大きく担うことになっていたのですが……案の定、メキシコの人々がその恩恵を受けることはありません。
当時スペインはオランダ独立戦争や、清との貿易などで多額の費用を必要としていたので、ほとんどがそういった用途に使われてしまったのです。
まぁ、その他にも王侯貴族の贅沢に使われたのですが。
クリオーリョ(植民地生まれの白人)たちも独立を目指す!
そんなこんなでメキシコの人口はなかなか増えず、都市機能にも影響が出始めました。
さらに1631年には、現地住民の徴用制度が廃止され、クリオーリョ(植民地生まれの白人)の地主が現地住民・メスティーソを小作人としてこき使う構図が定着。
一進一退が過大評価になりそうな状態が続きます。
18世紀半ばになると農業改革が進み、やっと経済がマシな状態になったところで、スペイン本国出身者しかお偉いさんになれないという露骨な差別制度ができてしまいます。
同じ白人であるはずの、クリオーリョですら政治に参加できなくなってしまったのです。
現地住民やメスティーソ、奴隷として連れてこられた黒人系の人々は言わずもがな。
しかし、18世紀後半になると北米でアメリカ独立戦争が起き、ヨーロッパでもフランス革命が勃発、クリオーリョたちが「俺達も独立してみせる!」と立ち上がりました。
最初は弾圧されながらも、ヨーロッパでナポレオンが台頭したことが間接的に後押しになりました。
ナポレオンが兄・ジョセフを無理やりスペイン王にしたため、ヨーロッパでスペインvsフランスの戦争が始まったのです。
これにて本国も、植民地の反乱に構っていられない状況に。
スペインの植民地だったメキシコも
「いきなりわけわからんフランス人の王様とかマジ勘弁」
と反逆し、ついでに本国からの独立も試みました。
こうして1810年のこの日、メキシコ独立革命が始まります。
ナポレオン戦争が収束すると本国からスペイン軍がやってきて……
当初、独立運動の中心になったのはミゲル・イダルゴという名の司祭でした。
それがやがてクリオーリョなどの白人富裕層vsそれ以外の住民という構図に変化。
独立運動は順調に行かず、翌年にイダルゴは捕らえられて処刑されるという、最悪の結末を迎えました。
しかし、イダルゴの部下だったホセ・マリア・モレーロス神父が遺志を引き継ぎ、主要な都市を攻略して、1813年11月にメキシコ共和国の独立を宣言しました。
つ、ついに……と思ったら、1814年に憲法の制定も行われましたが、まだクリオーリョたちの協力を得ることができず、頓挫してしまいます。
このタイミングで、ヨーロッパではナポレオン戦争が収まってしまいました。
スペインの後顧の憂いがなくなったのです。
さっそくスペイン軍は、おいたをする植民地をしばき倒しにかかりました。
モレーロスはスペイン軍に捕まり、1815年に処刑。
同じタイミングでほとんどの指導者も処刑され、メキシコ独立運動は一時、ゲリラ活動レベルにまで縮小してしまうのです。
「俺達の目的は一緒なんだから、力を合わせよう!」
しかし南米でシモン・ボリバルやサン・マルティンが活躍し、スペインの植民地を開放していくと、メキシコでも「俺達もこのままでいいのか?」という考えが広まりました。
かつて独立に反対していた、クリオーリョたちもスペインへの抵抗に傾いていったのです。
そして、クリオーリョの軍人アグスティン・デ・イトゥルビデがメスティーソ・現地住民を主とする独立派と、クリオーリョを中心とする保守派を「俺達の目的は一緒なんだから、力を合わせよう!」と説得してまとめあげることに成功しました。
そんなわけですったもんだの末、ひとまとまりになったメキシコの人々は、めでたくスペイン軍を追い返し、1821年に独立を達成しました。
その後もアメリカとの戦争やフランスのいらない干渉などなど、メキシコの試練は続きますが……まあその辺は以下の記事にお譲りしたいと思います。
米墨戦争とは?国境を巡るアメリカvsメキシコの因縁は根深く170年前から……
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長月 七紀・記
【参考】
メキシコ独立革命/wikipedia
メキシコの歴史/wikipedia
古代メキシコの先住民、ウサギを食用に飼育か 研究/AFP BB NEWS