【記事概略】
花の都として知られるフランスの首都パリ。
歴史と情緒に包まれた美麗なる都市として我々日本人にもよく知られた存在ですが、その美しさで知られるようになったのは約120前の大改造があったから。
それまでは汚物も放り捨てられていた、かなり不衛生な街でした。そんなパリは一体いかにして欧州一美しい場所へと変貌していったのでしょう……。
【本文】
古いものを守るのも大切なことですが、ときにはそれまでのものを否定して、新しい概念を入れなければならないこともあります。身近なところで行くと、「結婚後、お雑煮をどちらの実家のものにするか」とかでしょうか。両方作るお宅もあるようですが。
本日はその手の話の中でも、割とスケールのデカいものをご紹介しましょう。
1891年(明治二十四年)1月11日は、フランス・セーヌ県知事を務めたジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンが亡くなった日です。
県知事くらいの地位の人が歴史の表舞台に立つことは比較的珍しい話ですが、彼の名はおそらく残り続けるでしょう。
なぜかというと、彼は当時のパリを大改造し、現在の姿にした人だからです。
ハイヒールも汚物で汚れないために考え出されただと!?
「オスマン」という姓からすると、オスマン帝国に縁があるのかと思いきや、そうでもありません。
ジョルジュの父親はナポレオン1世に仕えていて、幅広い人脈を持っていました。これが長じてからのジョルジュの出世にも役立ち、革命と共和制、王政復古などで揺れる当時のフランスを生き抜いていくことができたのです。
学生時代には法律と音楽を学んでいたそうですが、やはり将来の安定を考えてか、お役所仕事を選びました。
かくしてジョルジュは20代のうちに県のお偉いさんになり、ナポレオン3世の時代にはパリを含むセーヌ県の知事に任命されます。
有名な話ですが、ブルボン朝時代までのパリは割とすさまじい場所です。「汚物は投げ捨てるもの」であり、ハイヒールは”ソレら”で汚れないように考え出されたものでした。
なぜ別のところに捨てるという選択肢が思いつかなかったのでしょうね(´・ω・`) 日本のように水をぜいたくに使うことはできないにせよ、穴を掘って埋めるとか、そのくらいのことをはできてよかったと思うのですが……。
まあ、当時のヨーロッパでは大部分の人が入浴をしませんので、ニオイに鈍感だったというのもありますけれど。
ナポレオン3世は一時イギリスに行っていた頃、ロンドンの清潔さに感嘆していました。
まあ、ロンドンもロンドンで下水事情はかなりアレで、1858年には「大悪臭」というシャレにならない事態が起きたり、人口過密と水質の悪さでコレラが大流行したり、様々な問題はありながらそれでもパリよりはだいぶマシだったようです。
1666年のロンドン大火で市街の大部分が焼けて、再建していますから、比較的新しい建物が多かったというのも要因でしょうか。
そのため、ナポレオン3世は帰国したとき、母国の首都があまりにもアレすぎて
「どげんかせんといかん」
と思い、県知事であるジョルジュも携わることになったのです。
道が入り組んでいて暴動が起きても鎮圧できない
ニオイだけでなく、この頃のパリは構造的にも大問題を抱えていました。
道が入り組みすぎていて、暴動が起きたときに当局が暴徒を鎮圧しにくかったのです。これは、フランス革命以降の混乱がなかなか静まらなかった原因の一つでもありました。
ナポレオン3世は衛生事情と治安の両方を向上させること、交通の便を良くして経済を発展させることを目指して、パリの大改造は急務だと考えます。
パリの地図とにらめっこしながら、ナポレオン3世とジョルジュは何日も議論を重ねました。
入り組んだ路地や、スラム状態だったところは景気良くぶっ壊し、幅の広い道路を配置。また、ナポレオン3世にとって伯父の勲章である凱旋門から放射状に道路を作りました。このとき、ジョルジュの生家も壊されたといいます。贔屓しないところがいいですね。
鉄道も敷かれ、パリの交通の便がよくなり、経済が活性化されました。
上下水道も重視されています。郊外に貯水池を作り、水道を設けたことにより、それまでよりも衛生状況が格段に向上しました。
また、ブローニュの森やヴァンセンヌの森はそれまで文字通りの”森”だったのですが、この頃公園として整備され、今日に至っています。これは、ナポレオン3世が「ロンドンのハイドパークのように、パリにも市民の憩いの場を作りたい」と思ったからだそうで、他にも小さな公園がたくさん作られました。
さらに、新しく作った建造物には高さや建材に制限を設けて揃えることで、美観にも気を配っております。
「生まれ出ようと欲する者は、一つの世界を破壊しなければならない」
こうしてパリは、衛生・交通・経済すべての面で生まれ変わったのです。
しかし、道が整備されるということは、軍事的には致命的でした。敵に攻め込まれてきたとき、スムーズに通過されてしまうからです。
事実、パリは普仏戦争や第二次世界大戦の際、あっさり包囲・占領されてしまっています。まあ、そもそも首都まで攻め込まれた時点でアウトなんですが。
もう一つの問題は、貧困層の締め出しでした。
上記の通り、パリ改造では多くの路地やスラムが壊され、そこにデパートやオペラ座が作られています。
元々住んでいた貧困層は、工事と人目を避けて郊外に移らざるを得ませんでした。現在でもパリ郊外には貧困層や移民ばかりの地域が存在します。
どこの国でもそういう地域はありますが、パリの場合、特に問題が根深いといえるでしょう。
文字通りの大事業を成功させたジョルジュのその後も、順風満帆とはいえませんでした。
内閣とケンカしてセーヌ県知事を辞任し、さらにナポレオン3世が普仏戦争で負けて捕まったために、帝政に疑問を抱く人が増え、フランスは第三共和政に移行しました。ジョルジュが返り咲く見込みはもはやなかったのです。
一時期ナポレオンの出身地であるコルシカ島で公職についていましたが、その後は権力欲を出すこともなく、回顧録を書きながら静かな暮らしをしていたとのことです。
亡くなったのはパリだったので、どこかのタイミングで戻ってきていたのでしょうけれども。
「生まれ出ようと欲する者は、一つの世界を破壊しなければならない」
かのヘルマン・ヘッセの「デミアン」に載っている言葉ですが、パリという町は生まれ変わった代わりに、包囲・占領という憂き目をみることになりました。しかし、「花の都」「光の都」と呼ばれるほどの繁栄も手にしました。
果たして古い世界と新しい世界、どちらが良かったのでしょうね。
長月 七紀・記
参考:ジョルジュ・オスマン/wikipedia Georges-Eugène_Haussmann/wikipedia パリ/wikipedia パリの歴史/wikipedia パリ改造/wikipedia