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明智家

細川ガラシャ(麒麟がくる/芦田愛菜)の壮絶生涯38年~最期は炎に包まれて

自害して、建物ごと炎に包まれる――。

たとえ戦国時代とはいえ、そんな激しい最期を迎えた人物は数えるほどしかいないでしょう。

そう。
あの織田信長……と言いたいところですが、実は、女性でも同じように激しい死に様となった方がおります。

細川ガラシャ(明智たま)です。

名字から明らかなように彼女は細川家の人間でした。

正確に言えば細川忠興細川藤孝・嫡男)の妻ですが、ガラシャには、もっと大きな“業”みたいなものがありました。

それは、彼女が明智光秀の娘であったということです。

父・明智光秀
夫・細川忠興

そして劇的な最期――本稿では、そんな細川ガラシャの生涯を追ってみたいと思います。

 

「明智玉子」として生まれた細川ガラシャ

細川ガラシャは永禄6年(1563年)、明智光秀の娘として生まれました。

父の光秀は、織田信長の家臣でありながら、その信長を討った「世紀の裏切り者」として有名すぎる存在。

母は賢さで知られる光秀の正妻・明智煕子(ひろこ)です。

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賢女として知られるガラシャは、両親の特性を素直に遺伝したのかもしれません。

生前は「玉子」と呼称されていたと考えられていますが、本稿では細川ガラシャで統一させていただきますね。

彼女の出生時、父の光秀はまだ信長の家臣ではなく、越前の朝倉義景に仕えていたとされます。

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その後、政情の移り変わりを受けながら、足利義昭の家臣を経て信長の配下に。新参者ながら、織田家で大きな存在感を示すようになりました。

当然ながら、ガラシャを含む明智家全体の地位も高まっていったと見るべきでしょう。

幼年期については史料に一切の記載がないため想像になりますが、父の成功によって何不自由ない生活を送っていたと推測できます。

それだけに、その頃は思いもよらなかったハズです。

まさか自分が父の光秀同様、壮絶な最期を迎えることになるとは……。

 

細川家嫡男・忠興と結婚

当時の政治的ヤリトリにおいて欠かせない「政略結婚」。

信長も、他国の有力者とだけでなく、織田家内においても姻戚関係を重要視しておりました。

家臣同士の子息をくっつけて結束を強め、織田家への忠誠を高めるのですね。

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光秀もまたそのご多分に漏れません。

新参者であり、まだ血脈的つながりのなかった明智家を、似たような立場の家臣と結びつけ、織田家内での関係を強化し、忠誠心を高めようと画策します。

では、光秀と似たような立場の武将とは誰か?

白羽の矢を立てられたのが、古くから足利将軍家に仕えた名門・細川家の細川藤孝(細川幽斎)でした。

藤孝もまた新参の家臣であり、同時に嫡男である細川忠興にはまだ正室が存在しなかったのです。

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そこで信長は光秀に「娘のガラシャと忠興の結婚」を提案しました。

この婚姻は、織田家に深くつながりを持ちたいと考えていた明智家・細川家にとっても望まれるものだったようで、信長の婚姻命令が下されてからスグに実行されます。

天正6年(1578年)に二人は結婚。

当時16才のガラシャは、同じく16才の忠興正室として嫁入り、晴れて細川ガラシャとなるのでした。

二人は、本能寺の変(天正10年・1582年)までに長女と長男一人ずつの子宝に恵まれ、表面上は順調な結婚生活を送っております。

ただし、忠興と結婚した後も、しばらくは「細川」姓を名乗っていなかった可能性が高いと考えられます。

織田家に仕えていた藤孝が、領地の地名から「長岡」という姓を名乗っており、この時期の細川家は「長岡家」と呼称されていたからです。

 

本能寺の変により激動の生涯始まる

細川ガラシャの順風満帆な半生は、唐突にその幕を下ろすことになります。

天正10年(1582年)6月2日未明。
父の光秀が突如として信長を裏切り、本能寺の変を引き起こしました。

謀反については極めて突発的な行動であり、その動機についてはハッキリしたことが分かっておりません。

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しかし「本能寺で光秀が信長を討った」という知らせは、細川家にもすぐに届けられました。

それとほぼ同時刻に、光秀から援軍の要請もあったようです。

明智家と細川家は姻戚関係にあり、光秀としても、ある程度は味方になる算段があったのでしょう。

悲しいかな、その目論見は見事に外れます。

細川家は信長に哀悼の意を示すことで光秀の救援要請を黙殺、羽柴秀吉豊臣秀吉)へ急接近するのです。

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この知らせを聞いた光秀はさぞかし動揺したことでしょう。

まるで懇願するように助力を求めるような手紙が『細川家文書』に収録されています。

それでもなお、秀吉に味方する姿勢を崩さなかった細川家。

明智家から嫁いできたガラシャを味土野(現在の京都府京丹後市)に幽閉および一時離縁し、さらには明智家から派遣されていた従者たちをことごとく送還するのでした。
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