明智光秀とは、いかなる人物か?
【本能寺の変】で主君・織田信長を殺した謀反人、悪人――かつてはそのようなイメージ一辺倒で、冷静な分析が入る余地は無きに等しいものでした。
しかし、時代がくだるとともに、評価は変わっています。
謀反の一件はあまりに衝撃的なれど、光秀が織田家で果たした業績そのものまで色眼鏡で見るべきではない。
事実、20202年の大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれた実直な姿は、評価の見直しが進んでいる証拠でもありましょう。
ただ、その一方で2023年の大河『どうする家康』では、あまりに意地悪い姿が描かれ、結局、光秀ってなんなんだよ……と混乱された方も少なくないようです。
一体どちらの光秀が実像に近いのか?
背景にあった史実とはいかなるものだったか?
あらためて、謎多き明智光秀、史実の生涯を振り返ってみたいと思います。
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明智光秀 霧の中の前半生
明智光秀の生涯を大河ドラマで描くとなると、それはもう非常に困難な作業のはずでした。
というのも、光秀はとにかくナゾが多い。
・知名度が高い
・その割に【前半生】の事績が不明
という二つの特徴があるのです。
ハッキリと事績が判明しているのは、後半生の十数年間のみ。
生年に至っては、
・永正13年(1516年)生まれ
・享禄元年(1528年)生まれ
・天文9年(1540年)生まれ
と主に3つの説が提唱されています。
そこから本能寺の変(1582年)時点での年齢に当てはめると
・67才
・55才
・43才
という計算になりますね。
当時の67才といえば相当な高齢ですから、ここでは便宜上、多くの辞書でも採用されている【1528年説(享年55説)】で進めましょう。
明智光秀、世に出る
明智光秀が霧の中から出てきて、歴史の光の中に姿を見せるのは、細川幽斎(細川藤孝)との出会い以降です。
※以下は細川藤孝の生涯まとめ記事となります
細川藤孝(幽斎)は光秀の盟友だった~本能寺後の戦乱をどう生き延びたのか
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越前にいた頃、二人は出会ったとされています。
軍記物(物語)での明智光秀は、斎藤道三の側にいた(長良川の戦いで敗北した)――そんな説もありますが、史実としての確定までには至っておりません。
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何らかの理由で美濃を離れたあと、越前国の朝倉義景に仕官し、十年間家臣であった――という話も実はハッキリしていない……。
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『麒麟がくる』では上記の流れで描かれておりましたが、実際のところ敗者の歴史は本当に残りにくいもので、武士としてのルーツは
清和源氏
│
土岐氏
│
明智氏
と推測されています。
ともかく、細川藤孝(幽斎)との出会いから、先へと進めましょう。
兄・義輝を殺された義昭のもとで
明智光秀が細川藤孝と出会った頃。
後に室町幕府最後の将軍となる足利義昭は、窮地に立たされておりました。
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永禄8年(1565年)。
第13代将軍・足利義輝が、三好三人衆や松永久通(松永久秀の息子)らの手にかかり無念の死を遂げ、弟・義昭は、姉婿にあたる若狭国守護・武田義統(よしずみ・よしむね)のもとへと逃れていました。
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義昭は、都を捨てたつもりはさらさらありません。
各地の武将に上洛&自らの将軍擁立を依頼し始めます。
細川藤孝が使者として派遣され、この申し出を受けたのが織田信長でした。
ところが、ここでトラブルが発生します。
永禄9年(1566年)に義昭は、織田家と斎藤家の間に和睦を結ばせていたのですが、わずか数ヶ月で信長が和睦を破り、美濃へと出兵。
家臣たちに愛想を尽かされていた斎藤龍興を稲葉山城(後に岐阜城)から追い出し、1567年8月、この地へ本拠地を移転したのです。
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