第二次上田合戦で徳川秀忠の本隊が足止めを食らったかと思ったら、京極高次との戦いで参戦の遅れそうな立花宗茂や毛利元康。
東西の主力がイマイチ足踏みしている最中、関が原にいち早く有利な陣を敷いたのは西軍かと思われた。
三成の本隊から見て、東の南宮山には毛利秀元、栗原山には長曽我部盛親が居座り、南の松尾山には小早川秀秋が……。もっとも小早川については、裏切りの可能性も考慮して、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の4名が防波堤として配置された――との見方もある。
いずれにせよ東の中山道からやってくる東軍をうまくすれば包み込めば、殲滅も難しくはなさそうな陣取り。
それでも三成は、落ち着けずにいた。
一方の家康は……?
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秀忠不在の今がチャンスなのか!?
◆本来なら東軍の背後を衝くハズの毛利秀元ならびに長曽我部盛親。
されど動かぬ毛利軍。先鋒の吉川広家が徳川家康に内応しており、動こうにも動けなかったのです。
このとき「兵たちに弁当を食わせているから」という言い訳が「宰相殿の空弁当」として後世に伝わっているのは有名な話であり、その後ろにいた長曽我部盛親もまた兵を繰り出すことができなくなりました。
このあたりの采配が、さすが家康と言ったところでしょうか……。もちろん戦局次第では吉川&毛利もどのように転ぶかわからず、家康もギリギリだったのでしょうけど。
松尾山を押さえたのは西か東か、未だ旗幟鮮明ならず?
◆毛利&長曽我部のいた東の両山(南宮山・栗原山)もさることながら、重要拠点となったのが小早川秀秋の松尾山でした。
この山の色が東に染まるか、それとも西なのか。
それだけで戦局が文字通り一変することは素人目にも明らか。
秀忠不在で不利に見えた東軍が実は……という。
主君に恵まれなかった男 悲しき忠義者・松野重元なり
◆もとは秀吉に仕えていた松野重元。
小早川秀秋が同家に養子として入った折、秀吉の命で配下となりました。
関が原の戦いでは、秀秋の東軍参加に同意できず戦線を離脱すると、これが「忠義者」との評価を受けて戦後は仕官を許されます。
しかし、江戸時代になって主君の田中家が改易になると、次に徳川忠長に仕えてこれも改易。
なんとも恵まれない武将生活でした。
物語性は抜群なんすけどね。本人は辛かったことでしょう。
豊臣政権のエリート秀家に謀将の血、伝わらず?
◆裏切り&暗殺上等の謀将・宇喜多直家。
その息子の宇喜多秀家は、前田利家の娘であり、秀吉の養女でもあった豪姫を娶るなど、豊臣政権のエリートでした。
本人も男前だったとされ、当時のキングオブリア充ってところでしょうか。
それだけに父・直家の謀将魂は伝わらなかったようで……。
漫画・アニィたかはし
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