井伊家

僧・守源の謎多き功績 滅びかけた井伊家と直政を救ったのは誰だ?

井伊家を救った恩人は誰か?
真っ先にあげられるのは次の2名であろう。

井伊直満の死後、遺子・亀之丞を守った今村藤七郎(今村正実)。
井伊直親の死後、遺子・虎松を守った新野左馬助親矩。

他にも「虎松を養子にして守った松下清景」が該当するかもしれない。
松下の場合は嫡男がいなかったので、虎松(後の井伊直政)を養子にしたのが、結果的には「守った」「徳川家康に仕官させることに成功した」恩人となった。

では、浄土寺の僧・守源は?

虎松の潜伏先の日輪院(鳳来寺)

 

3歳から13歳までの虎松は、浄土寺・守源のもとにいたのか

井伊直親の死後、遺子・虎松を守った新野左馬助は、永禄7年(1564年)9月15日に討死。虎松の生年月日は永禄4年(1561年)2月19日であるから、3歳の時に亡くなった計算である。
その後、虎松が三河国の鳳来寺(愛知県新城市)から井伊谷へ帰国したのは、永禄5年(1562年)12月14日のこと。誅殺された父・井伊直親の13回忌が天正2年(1574年)12月14日であり、このときに戻ってきているから虎松が13歳の時となる。
虎松はこのタイミングで松下清景の養子となり、それから間もない天正3年(1575年)2月15日、徳川家康に仕官した。

では、3歳から13歳までの10年間、虎松は何をしていたのか?

実はこの動向が不明であり、
──新野家では守れないので、10年間、鳳来寺に隠れていた
ということであれば、事情は単純明快であるが、
──新野家では守れないので、新野家ゆかりの浄土寺に隠れ、井伊直虎が城主になると一時は井伊谷で育てられたが、直虎の失脚と共に今度は鳳来寺に隠れた
との話も伝わっている。

他にも諸説あり、
・殺すために駿府に送られたが大久保忠正が強引に引き取って育てた『大久保家文書』
・岩間寺(浜松市北区引佐町栃窪)が匿った『守安公書記』※筆者未見
・順慶が住心院(京都市中京区東洞院六角上る三文字町・2011年、左京区岩倉に移転)で匿った『彦根史話』
・真廣寺(滋賀県米原市上多良)が匿った『近江国坂田郡史』
いずれも「これだ!」と確証は持てず、私が調査した限りでは、
──複数の親戚や武家、更には寺をたらい回しにされた
としか言えない。
この3歳からの10年間、同年代の子供と遊ぶ間もなく、大人たちの間で揺れ動かされた経験が、井伊直政の社交性を育て、文字の読み書きが出来ることもあってか徳川家康政権で外交担当に抜擢された要因にもなった可能性を感じずにはいられないのである。

ところが、である。
複数の資料を読んでいると、「浄土寺の守源」なる僧が3~10歳の直政を面倒見ていた――という記述も出てくるのである。
一体これはどういうことなのか?

 

『寛政重脩諸家譜』には左馬助の叔父が住職を務める浄土寺と

江戸幕府・公式文書の『寛政重脩諸家譜』の「直政」には、次のように記されている(原文と現代語訳を併記)。
【原文】「永禄四年、遠江国井伊谷に生る。五年、父、直親戦死ののち、その罪、いまだ明白ならざるにより、領地を没収せらる。ときに直政も害せらるべきを、新野左馬助某強て一命をこひうけ、かれが家に養育せらる。七年、左馬助、遠江國引馬(のち濵松にあらたむ)にをいて討死すといへども、その妻、なほ撫育するのところ、氏眞、また殺さむとす。こゝにをいて某妻にやくはかりて、左馬助が叔父、浄土寺の僧にあたへて、出家せしむるにより、遂に死をまぬかる。十一年、氏眞没落のとき、直政、浄土寺の僧等とともに三河國鳳来寺にのがれ、それより遠江國濵松にいたる。」
【現代語訳】「井伊直政は永禄4年(1561年)、井伊谷で生まれた。翌5年に父の直親が亡くなると領地を没収され、直政も殺されそうになったところで新野左馬助の嘆願によって一命をとりとめ、同家で育てられる。しかし永禄7年になって左馬助が浜松で討死すると、今川氏真によって再び直政は命を狙われ、結局、左馬助の叔父が住職を務める浄土寺へ逃げ込み、からくも命は助かった。永禄11年、今川氏真が駿河を追われると、直政の危機も去り、三河の鳳来寺へ。そして浜松(の徳川家康の元)へやってきた」

『寛政重脩諸家譜』は、諸藩から提出された書類をまとめた本であり、上記の出典元になっているのは彦根藩作成の『井伊家系譜』だ。
手元にある『井伊家系譜』は弘化3年(1846)9月のものであり、軍師・岡本半介作成の『井伊家系譜』ではないが、一応、原文と現代語訳を載せておく。上記とほぼ同意であることはご容赦願いたい。

【原文】「一、永禄五壬戌年、直政父・肥後守直親、於今川家、権現様江奉通之由、氏眞江致讒言候者有之ニ付、無逆意旨為陳謝赴駿府候処、於懸川、朝比奈備中守ニ被碍及生害候。此時、直政二歳。可被害之処、氏眞一門・新野左馬助一命を申宥、於其家致養育候。永禄七甲子年、直政四歳之時、左馬助、於遠州引馬(今之濵松)、致討死。氏眞、猶又直政を相尋可害様子ニ付、左馬助寡婦、引馬浄土寺之和尚(左馬助叔父)与相謀、其寺ニ隠し置候。永禄十一戊辰年、今川氏眞没落之時、直政八歳、浄土寺之和尚等、直政を召連、三州鳳来寺ニ逃れ、夫より又引馬ニ歸候。其後、直政母、遠州之住人・松下源太郎清景江致再嫁候付、母一緒ニ源太郎家に被養候。」
(彦根城博物館所蔵『系譜』(彦根藩井伊家文書))
【現代語訳】「井伊直親の誅殺後、その子・直政に今川氏真から殺害命令が出たが、まだ2歳であったので、「大きくなったら出家させる」という条件で、新野親矩が引き取って育てた。新野親矩が討死すると、新野親矩の妻が直政を保護したが、今川氏真から再び殺害命令が下されると、「これ以上は守りきれない」として、新野親矩の叔父が住職を務める浄土寺で出家させて殺害を逃れたという。その後、武田氏が駿河国に侵攻し、今川家が滅んだので、井伊直政を還俗させて井伊谷へ返そうとしたが、武田氏が進行ルート上の寺社を焼きながら浄土寺がある引間に迫ってきたので新野親矩の叔父が住職を務める浄土寺を捨て、鳳来寺へ、直政、直政の乳母・おく殿たちは逃げた

やはり井伊直政は、浄土寺や鳳来寺によって保護されたのであろう

祖山和尚著『井伊家伝記』(1730年)

 

祖山和尚の興奮が伝わってくる長文にヒント?

さて、困った時の『井伊家伝記』頼み。同書では如何に描かれているか? 見てみよう。

【原文】◆小野但馬井伊保を横領之陰謀之事并直政公鳳来寺江御忍被成候事
「新野左馬助、中野信濃守、討死之後、次郎法師、地頭職御勤、祐椿尼公(直盛公之内室なり)、實母、御揃、直政公御養育申候得共、皆々女中斗故、但馬諸事取斗、我儘斗致、何とそ井伊谷を押領可仕旨、相巧ミ申候折節、永禄十一年之秋、甲州武田信玄、駿府今川氏真を相攻、依之、右軍用故、但馬駿府江罷、帰國之上、則、申候ハ、「氏真下辞二て直政公を奉失、井伊保人数召連、駿府発向可致」旨、押領之支度、殊更、女中揃にて進退難叶、直政公、早々龍潭寺江御忍被成、南渓和尚出家二可被成候由二て、衣を御きせ奉り、其場を御のが連御忍被遊候事ハ、直政公八歳之節也。龍潭寺二御忍被成候得共、南渓和尚、出家二ハ被成間敷御心入にて、三州鳳来寺江奥山六左衛門、相添被遣候て、剃髪ハ不被成候。」

【現代語訳】◆小野但馬、井伊保を横領の陰謀の事、並びに、直政公、鳳来寺へお忍び成され候事
「新野左馬助と中野信濃守の両名が討死した後は、次郎法師が地頭職に就かれた。そして、次郎法師、祐椿尼(井伊直盛の妻、次郎法師の実母)、虎松の実母の三人が揃って井伊直政の養育にあたったが、皆、女ばかりであったので、家老の小野但馬守が諸事取り仕切り、思うが儘の状態。さらに小野但馬守は、何とかして井伊谷を横領しようと企んでいた。しかし、永禄11年(1568)の秋、甲斐国の武田信玄が、駿河国駿府の今川氏真を攻めたので、「軍議が開かれる」と言って小野但馬守は駿府へ向かい、駿府から帰国すると「今川氏真公から井伊直政を殺すように。そして、井伊谷から兵を出して駿府によこすように」という下辞が下ったと言った。これで井伊谷横領の準備が整った。なにぶん女ばかりなので対処し難しく、とにかく、井伊直政を急いで龍潭寺へこっそりと逃げ込ませた。南渓和尚は、井伊直政が出家したと見せかけるために、法衣を着せて「出家させた」と言って、その場を逃れた。井伊直政が8歳の時の事である。龍潭寺に身を隠す事は出来たが、南渓和尚は、出家はさせたくないと思っていたので、三河国の鳳来寺(愛知県新城市門谷)へ、奥山六左衛門を付けて遣り、剃髪はさせなかった。」

以上、『井伊家伝記』の要点を三行でまとめると、
①新野左馬助が死ぬと、直虎・祐椿尼(直虎の母)・直政母の3名が井伊直政の面倒を見た
②井伊谷の実権は小野政次が握った
③直政は再び殺されそうになり、南渓和尚が三河の鳳来寺へ逃がした
ということであろう。
ここでは「浄土寺」の文字は見受けられない。

江戸幕府及び彦根井伊氏の見解とは異なるためか、本文の約2倍のある長いコメントが加えられている。

【原文】評曰、御系圖を岡本半助編被申候節ハ、直孝公御代二て、彦根二て被編候故、「其節、井伊保江御飛脚参候て、有増之事、書付遣申候」と、先住・徹叟申候。御系圖之中、共資公已前ハ相知レ不申候所、井伊谷龍潭寺過去帳二「保内の元祖・共保、法名・行輝寂明、當山門前之井中ゟ誕生、御家、本ハ九条殿より出」と有之を写し遣申候得ハ、早々直孝公より九条・近衛江之両家江御尋、大職冠より共資公迄十二代ハ右両家より写し出奈り。其レ斗にても無之、天正十八年以後之事ハ、相違、無之。天正十八年已前之事ハ、御系圖斗にても無之、諸書、軍記等二も少々宛相違有之。就夫、直政公御落行之節者、浄土寺之和尚陳謝之旨、又、指南之僧守源と御系圖ニハ相見申候得共、是ハ相違二候。右、浄土寺申候寺ハ、遠州濱松西来寺中小庵にて、今以有之候。小野但馬逆心申候ハ、永禄十一年、直政公八歳の節、井伊谷にて之事也。夫迄ハ、井伊谷二地頭職ハ、次郎法師、御勤被成候て、直政公、無御別条、在城被成候。永禄十一年、小野但馬逆心にて、井伊保、揉合、騒動より、直政公御立退き被成候事ハ、井伊保にて之事故、龍潭寺南渓和尚へ疑事、無之也。扨又、浄土寺守源、直政公江懇意之事ハ、松下源太郎濱松住宅之節、浄土寺江御出入被成候二て、御手習等、被成候故、懇意二御座候。右、浄土寺守源、御指南申候事ハ、天正三年後、直政公、権現様江御出勤以後之事也。右守源ハ、直政公御立身之上、還俗致候様二被仰付候得共、還俗不致、乍出家、小納戸役、被仰付候て、上州箕輪、江州彦根迄参候。彦根二て、直政公、宗徳寺江被仰付、一生、御介抱被遊候。右、宗徳寺者、直政公實母蘭庭宗徳大姉之為二御建立故、宗徳寺と申候由、承及申候。此一段、御系圖と相違申候故、如斯評判申なり。

【現代語訳】 江戸幕府の公式見解は、彦根藩から提出された書類に基づいており、その彦根藩が提出した書類は、岡本半介が書いた『井伊家系譜』に基いているが、岡本半介が『井伊家系譜』を作成したのは、直政の次男・井伊直孝が彦根藩主の時代(慶長20年(1615)~万治2年(1659))であり、彦根で作成された。「この時、井伊谷へ飛脚が彦根藩から来たので、(遠江井伊家の歴史を)大まかに書いて送った」と、私(龍潭寺九世・祖山和尚)の前の住職である龍潭寺八世・徹叟和尚が言っていた。(井伊谷にある)『井伊家系譜』には、藤原共資より前の事は書かれていないので分からないが、龍潭寺の過去帳に「(村櫛から)井伊谷に移った井伊家始祖・井伊共保(法名は行輝寂明)は、龍潭寺の山門の井戸の中から生まれた。また、井伊家は、九条殿と同じ藤原北家の流れである」と書いてあるので、それを写して彦根藩からの使者に渡すと、早々と彦根藩主・井伊直孝は、九条家と近衛家の両家にご質問され、大織冠(藤原家始祖・藤原鎌足)から藤原共資までの12代の系図が両家の系図から写し出されたので、この12代についての記述はこの時に制作されたものであり、『井伊家系譜』の他には載っていない。『井伊家系譜』の天正18年(1590)以降の記述は正確で、間違いないが、天正18年(1590)以前の記述については、『井伊家系譜』と他の本や軍記物を読み比べると少々食い違っている記述がある。たとえば、井伊直政が逃げた時の事を、「浄土寺の和尚には迷惑をかけた」「師僧は守源」と『井伊家系譜』に書いてあるが、これは間違いである。この浄土寺という寺は、遠江国浜松の西来院(静岡県浜松市中区広沢二丁目)の塔頭(寺院内寺院)で、今も存在する。小野但馬守が反逆したのは、永禄11年(1568)、直政が8歳の時で、井伊谷でのことである。それまで、井伊谷の地頭は、次郎法師が務められていて、直政は別条(特記すべき条項)無く、井伊谷城におられた。永禄11年、小野但馬守が反逆して、井伊領が入り乱れる騒動となり、井伊直政が逃げたのは、井伊谷での事であるので、龍潭寺の南渓和尚が関係したことに疑いない。さてまた、浄土寺の守源が、井伊直政と懇意にしていたのは、(井伊直政が)松下源太郎の浜松の屋敷にいた時に、浄土寺に出入して手習いなどをしていたからである。この浄土寺の守源が、指南(指導)していたのは、天正3年(1575)、井伊直政が徳川家康公へ仕官して以後の事である。この守源は、井伊直政が出世すると、井伊直政に「還俗するように」と言われたが、還俗せず、出家したままで小納戸役(茶道坊主か。『慶長七年分限帳』(井伊直政の家臣(知行取301人、切符衆106人、餌指4人)の名簿。筆者未見)の「切符衆」に「三十石 五人扶持」とあるという)を仰せ付けられて、上野国 箕輪、近江国彦根と、井伊直政に仕えた。彦根では、井伊直政に、宗徳寺(滋賀県彦根市)の住職に任命されるなど、生涯手厚く扱われた。この宗徳寺は、井伊直政の実母(戒名:蘭庭宗徳大姉)のために建立された寺であるので、(その戒名から)「宗徳寺」と名付けられたと伺っている。
この段は、『井伊家系譜』とは食い違った内容であるので、このようなコメントを加えておいた。

長い。祖山和尚の興奮が伝わってくる長文である。
内容をまとめると、
①藤原鎌足~藤原共資の系図は、井伊直孝の時代に作成された。他には存在しない。
②藤原共資~天正18年(1590)のことは、彦根で作成された『井伊家系譜』に書かれている事と他の本の記載とは異なる部分がある。
③天正18年(1590)以降の彦根での事は、彦根で作成された『井伊家系譜』に正確に書かれている。
となるが、そもそも『井伊家伝記』の執筆目的は、「遠江井伊家と自分が住職を務める龍潭寺との深い関係の明文化」であるので、②の部分、特に龍潭寺に関する部分は譲れないゆえにこのような長文となったのであろう。

祖山和尚は
──虎松は井伊谷から引馬の浄土寺に逃れ、守源らにより、さらに鳳来寺に逃れた。
と書かれているのが許せず、史実は、
──虎松は井伊谷に住んでいて、龍潭寺に逃れ、南渓和尚の計らいで、さらに鳳来寺に奥山六左衛門が連れて逃れた(虎松と浄土寺の関係は、虎松が鳳来寺から帰り、松下家の養子になってから始まった)
なのだと主張する。

論点をまとめると、新野親矩の死後、虎松は、
①新野親矩の叔父が住職を務めていた浄土寺に預けられ、その後、鳳来寺へ
②井伊谷にいたが、井伊直虎失脚後、南渓和尚の計らいで鳳来寺へ
のどちらかということか。

浄土寺は、その名の通り浄土宗の寺であるか、普済寺や西来院のように曹洞宗の寺であるか分からない。
南渓和尚の龍潭寺は臨済宗で、鳳来寺は真言宗である。今回は、亀之丞の時の「龍潭寺から松源寺へ」という臨済宗妙心寺派のネットワークは使用されていない。
※「鳳来寺」というと、鳳来寺松下氏の協力とか、松下常慶の修験道ネットワークの使用が考えられる。井伊直盛の家臣となった松下清景が、井伊直盛の指示で井伊直親の家老になっていたというが、この時期、松下氏がどの程度深く遠江井伊氏と関わっていたかは不明。

 

静岡県浜松市にある「浄土寺」へ行ってみた

一体何が正しいのか。
ここは祖山和尚(龍潭寺)の言い分だけでなく、守源(引馬の浄土寺、あるいは、彦根の宗徳寺)にも注目せねばなるまい。

浄土寺について、『井伊家伝記』には、「遠州濱松西来院寺中小庵にて、今以有之候」とある。
が、西来院(普済寺末寺)も普済寺も太平洋戦争で建物も古文書も全焼していて「浄土寺」という塔頭は現存しないし、その存在も不明。江戸時代の地図には、西来院や普済寺は載っていても、塔頭までは載っていない。
ただ、普済寺の南側(普済寺と秋葉坂下の間)に「浄土寺」(静岡県浜松市中区広沢三丁目)という寺があるので現地へ行ってみた。

浄土寺

浄土寺由緒書

創建時は浄土宗の寺であったので「浄土寺」であるが、後に普済寺(曹洞宗)の末寺になって、曹洞宗に改宗したという。

井伊直政について同寺は、
──遺品はもちろん、伝承すら残っていない。
とのこと。
「守源」という名についても「知らない」という。

『礎石伝』には、
「新野左馬介親矩之弟・式部少輔(親道ト系譜ニ在之、元規在之候)、引馬浄土寺住持ハ号・守源也。弟子は珍源ト云。右浄土寺ト云フハ高町西裏ニ在之。往古之寺屋敷ハ東鴨江村、今之快専寺之場所ニ在之候。表門ハ北向、通用門ハ東向也ト申伝へ候也。」
とあるが、「快真寺」(浜松市中区鴨江1丁目)はあっても「快専寺」は無い。江戸時代の地図にも無かった。ちなみに、快真寺は、古くは遍照山西法寺(真言宗)と称し、静岡県磐田市池田(旧・豊田町池田)から鴨江に移ったという。

一方で、信用度が高い史料と言われる『家忠日記 増補追加』に、
「此年、新野、引間之城ヲ攻テ戦死ス。新野カツマ、万千代ヲ介抱ス。氏真、又、万千代ヲコロサント欲ス。是ヲ恐テ浄土宗ノ僧トナリシテ、ソノ死ヲノカル。真親生害スルノ後、彼ツマ、松下源太郎ニ嫁ス。故ニ、万千代、ヒソカニ松下カ家ニ蟄居」(今川氏真からの殺害命令を浄土宗の僧となることで逃れた)
という記述もある。
「浄土寺」はそもそも「浄土寺」という名のお寺だったのか?
「浄土」を寺号と考えず、「浄土宗の寺」と考えての調査も必要かもしれない。

最後に、彦根の「宗徳寺」(滋賀県彦根市上藪下町)へ行ってみた。
宗徳寺は、文政2年(1819)に現在地(彦根市里根町)へ移転し、さらに、文政5年(1822)頃、井伊直中の戒名「観徳院殿天寧宏輝大居士」により「天寧寺」(曹洞宗)と寺号を変えていた。

ここでも
──守源に関する資料・頂相・像も、伝承も無い。
とのことである。
天寧寺についての資料はあるが、宗徳寺についての資料は無いようで、守源の位牌も墓もなく、没年も分からないそうである。
ただし、守源は宗徳寺の開山であるので、名前だけは伝わっているという。

その名は、古文書に登場する「守源」でも、「珠源」でもなく、
──殊玄記室(しゅげんきしつ)禅師
だそうだ。「禅師」とは、禅僧に限らず、高徳な僧侶に対する尊称・諡号である。

天寧寺

以上、虎松の動向や守源については不明な点が多く、本特集の最終回に回し、最後の最後まで調査を継続していたのであるが、結局、
①虎松は龍潭寺から奥山六左衛門に連れられて鳳来寺に逃れたのか、浄土寺の守源に連れられて鳳来寺に逃れたのか
②「守源」について、表記は「守源」なのか、「珠源」なのか。浄土寺の住職(新野親矩の叔父)なのか、寺僧なのか。
いずれの謎も解決できなかった。お恥ずかしい次第である(ご存じの方がいたら、下記コメント欄にて教えていただきたい)。

井伊直政と守源の出会いは、鳳来寺落ちの前なのか、後なのか。
いずれも不明であるが、井伊直政が引馬(浜松)に住んでいる時は、浄土寺に通っていたという。
そして守源は還俗しないで、僧のまま井伊直政の家臣となり、後には井伊直政の実母の菩提寺の住職となったという。
『井伊家伝記』にあるように、共に鳳来寺へ逃げたのが守源ではなく、奥山六左衛門であれば、守源は「恩人」というよりも「手習いの師」であり、「家臣」である。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 



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