鎌倉時代で文化史といえば、やはり鎌倉仏教でしょう。
誰もがなんとなく連想できるのに、理解の難しさときたら日本史最悪レベル。
まずは大まかにザックリ分けてみますと、
◆浄土宗と浄土真宗「庶民でも信仰を示せば仏様が救ってくださるよ!」
◆臨済宗と曹洞宗「正しい修行をして自分自身を救おう!」
◆日蓮宗「“南無妙法蓮華経”と唱えれば救われるよ!」
◆時宗「仏様はスゴイので、信仰心がない者でも、念仏を唱えれば救ってくださるよ!」
こんな感じですね。
このうち臨済宗・曹洞宗、さらには日本達磨宗・黄檗宗・普化宗などをまとめて【禅宗】ともいいます。
後ろの三つはあまり受験で問われませんが、テストに出やすい臨済宗と曹洞宗は何が違うのか?
一言でまとめますと
「臨済宗は公案という問答を重んじ、曹洞宗は座禅を重んじる」
というところです。
余計混乱してしまったでしょうか……。
臨済宗は他者との対話、曹洞宗は自らとの対話といえるかもしれません。
また、仏教だけでなく、多くの宗教において、創始者の人格や考えは宗旨に強く影響します。
ということは、曹洞宗の教えには曹洞宗の開祖である【道元】の考えが色濃く出ているということになりますね。
彼の生涯を見ていくことで、なぜ曹洞宗が内面と向き合うことを重視しているのかわかるかも……ということで建長5年(1253年)8月28日が命日である道元の生涯を辿ってみます!
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早くに両親が他界 中学生で出家を決める
道元は、正治二年(1200年)に内大臣・源通親と、摂政太政大臣・藤原基房の娘の間に生まれたといわれています。
父方を遡ると、村上天皇の第七皇子・具平親王、母方をたどると藤原道長に行きつく――というかなりの名門。
しかし幼い頃に両親が亡くなってしまい、伯父の藤原師家に引き取られて育ちました。
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残念なことに、この時代の貴族にとって、幼い頃の親との死別は、後ろ盾を失うことであり、ほぼ“詰み”を意味します。
そのためか、道元は自らの意思で仏門に入る事を決意し、伯父の制止を振り切って比叡山で出家しました。
建保元年(1213年)のことですから、現代でいえば中学生で自らの将来を決めたことになります。この時代では元服していてもおかしくない歳ではありますが、何とも思い切りのいいことですね。
比叡山は天台宗の総本山ですから、当然、道元も天台宗の教義を学びました。
しかしそのうち、
「天台宗では『一切の衆生はもともと仏である』としている。ならばなぜ、人は修行を積まなければならないのか」
という疑念が生まれます。
もっともな話です。
そして比叡山にいる限りこの疑問は解けないと感じ、比叡山を降りて、近くにある園城寺(おんじょうじ/現・滋賀県大津市)の僧侶・公胤(こういん)を訪ねました。
余談ですがこの園城寺、これ以前から比叡山と対立して焼き討ちに遭ったこともあるという、凄まじい関係のお寺です。
道元が具体的に何を考えて園城寺を訪ねたのかは判然としませんが、いきなり敵対関係にある人を頼るあたり、思い切りがいいというかなんというか……。
大陸で禅宗を学ぶため、まずはツテを作りに建仁寺へ
公胤は道元の疑念には答えなかった、といわれています。
「その発想はなかった」状態だったんですかね。そんなまさか。
代わりに「それなら、大陸に渡って直に禅宗を学ぶと良い」と言いました。
道元は早速行動に移します。
まずはツテを作るため建保五年(1217年)、臨済宗の総本山・建仁寺に赴き、栄西の弟子・明全(みょうぜん)を師とし、六年ほど修行。
臨済宗・開祖の栄西は、この二年ほど前に亡くなっていたとされていますが、後年の道元の言動によると、何回かは会ったことがあるようです。
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そして貞応二年(1223年)、道元は明全のお供のような形で宋へ渡りました。
上陸したのは、現在の寧波(ニンポー)だったそうです。
ここは上海の南にある町で、古くから遣唐使が上陸したり、日本の貿易船が入ったり、日本人の出入りが珍しくない土地です。
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まだ23歳の若き僧侶の目に、大陸の景色はさぞ雄大に映ったことでしょう。
しかし、宋で道元へ最初に衝撃を与えたのは、とある老僧との対話でした。
「お若いの、修行とは禅や経だけではないのだよ」
その老僧は、かつてはとあるお寺の住職を務めたことがあるほど、見識の高い人。
ところが初心に返って修行をやり直そうと決意し、道元と出会ったときには、別のお寺で典座(てんぞ・僧侶たちの食事を用意する役目)をしている、と話しました。
寧波に来ていたのも、お寺の料理でダシをとるのに使う椎茸を買うためです。
当時は日本産の椎茸が大陸で好まれていたようですね。
現代では中国産の椎茸が日本で売られていることも多いですし、真逆になっていて面白いものです。
それはさておき。
道元には、不思議でたまりません。
「なぜ貴方のような修行を積んだ僧侶が、典座のような下働きをしているのですか? それに、修行をやり直すのであれば、経典を詠んだり座禅を組むのが本筋ではありませんか? どうして、料理のような雑用をやっているのですか?」
(他にも道元が投げかけた疑問は多々ありますが、長いので割愛)
道元の問いに、老僧は笑って答えました。
「お若いの、貴方はまだご存じないようだが、修行とは禅や経だけではないのだよ」
そう言って、去っていったのだといいます。
老僧の言葉をよくよく噛み締めた道元は、やがて気づきます。
「そうだ、料理を仕事にしている者にとって、料理は雑用ではない。軽んじる気持ちがあるから、雑用だと思ってしまうのだ」
それ以降道元は、今までの自分が頭でっかちだったことに気づき、気合を入れ直して修行に励もうと、決意を新たにしたといいます。
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