栄西

栄西/wikipediaより引用

寺社・宗教

日本に茶や禅を伝えた栄西~宗派を超えてリスペクトされたのはなぜか

永治元年(1141年)4月20日は、日本に臨済宗を伝えた僧侶・明菴栄西(みょうあんえいさい)が誕生した日です。

「えいさい」「ようさい」はまだ確定していないようなので、皆様お好きなほうで脳内変換をお願します。

本日はこの鎌倉仏教の主要人物が、どのような経歴を持っていたのかを見て参りましょう。

 


吉備津神社の権禰宜だった賀陽貞遠の息子

栄西は、吉備津神社(きびつじんじゃ・岡山県加賀郡)の権禰宜(ごんねぎ)である賀陽貞遠の子として生まれました。

権禰宜は神職の一つです。

会社に例えれば、

宮司(ぐうじ)が社長

権宮司(ごんぐうじ)が副社長

禰宜(ねぎ)が部長

権禰宜(ごんねぎ)が係長

くらいでしょうか。

栄西は幼い頃から頭が良かったようで、7歳の頃には仏教の注釈書などを読んでいたといわれています。

そして14歳で延暦寺に入り、仏の道を歩み始めます。

その後、他の寺も渡り歩き、天台宗の教義を学んでいきました。

しかし、修業を続ける中で仏教のあり方に疑問を持つようになります。

当時の延暦寺は僧兵も増えてきており、少しずつ物騒な組織になりはじめていたからです。敬虔な僧侶である栄西が、違和感を覚えるのも無理のない話ですよね。

 


天台宗のため禅の要素を取り入れ

27歳のとき天台宗を立て直すため、宋(当時の中国)へ渡って勉強しようと考えました。

当時は平家の全盛期。

栄西も平家の庇護を受けて渡海しています。

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宋では禅宗が盛んになっており、栄西も「禅の要素を取り入れれば、天台宗のためになる」と考えて禅を学びました。

禅を俗っぽく表すと「より宗教的な意味合いのある瞑想」という感じでしょうか。

座禅を基本とするのも、心を落ち着かせて悟りを開くため……というのが始まりだったのでしょうね。

また、禅における「悟り」とは、「自らの心の中にある仏性に気づくこと」をいいます。

さらに「仏性」とは、「言葉や理屈を超えたものを認知すること」を指す……そうです。わかりやすいところでいえば、神仏や霊魂の存在、あるいは言霊などでしょうか。

これらを目指して心静かに考えることが禅の本質であり、座禅や考案(問答)によって悟りを目指していくわけです。

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