織田信長は、そのコワモテなイメージとは裏腹に、何度も裏切りに遭った武将です。
ざっと例を挙げるだけでも
・織田信勝(信行/弟)
・浅井長政
・荒木村重
・松永久秀
名だたる武将たちに謀反を起こされては窮地から立ち上がり、最終的には明智光秀による【本能寺の変】で生涯を終える――。
まさしく戦国の荒波を生き続けた人物ですが、数ある裏切りの中でも信長本人の衝撃度No.1を争うのが浅井長政ではないでしょうか。
妹のお市を嫁入りさせ、実の兄弟同様に信頼していたとされる長政。
そんな長政になぜ信長は裏切られたのか?
本稿では、その謎に迫ってみたいと思います。
裏切りの背景にあったのは、近江を領地としていた浅井家特有の事情でした。
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浅井と織田の同盟はいつ始まった?
お市はいつ長政に嫁いだのか?
つまり、織田家と浅井家の同盟はいつ始まったのか?
と、これが正確な年数は不明であり、ざっと
・永禄4年(1561年)
・永禄6年(1563年)
・永禄11年(1568年)
などの説が唱えられています。
どれが正しいのか。当時の織田家を見てみますと……。
親戚や弟などによる裏切りの連続で、信長が尾張を完全に統一できたのが永禄8年(1565年)のこと。
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その勢いで美濃を陥落させたのが永禄10年(1567年)ですから、最も現実的なのは永禄11年(1568年)でしょうか。
同年は、信長が足利義昭を擁して上洛する年でもあり、是が非でも浅井との結びつきを構築しておきたいタイミングでした。
しかし、同時にこれが非常に危ういバランスの上に成り立っていたのも事実です。
というのも北近江における浅井長政の支配力が盤石とは言えなかったからです。
順を追って見て参りましょう。
京極家vs六角家の中に生まれた浅井家
浅井家は長らく南近江の六角家と近江の覇権を争っていました。
戦略的には、美濃の斎藤家と手を組み六角家と敵対していたのですが、道三が敗死して、息子・義龍の時代になると斎藤家は浅井家と縁を切り、六角家と縁組みしてしまいます。
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関ヶ原付近を挟んでこのようなパワーゲームが行われていましたので、同エリアで苦境に陥りそうな浅井家にとっても織田家との同盟は有効でした。
しかし浅井家にとって、織田家との同盟は、美濃方面の安定という側面だけが必要でそれ以上のものは欲していません。
むしろ織田家との婚姻による同盟を快く思っていない家臣が浅井家には多くいました。
これには浅井家が戦国大名として独立した経緯と浅井家の国家戦略に理由があります。
時代を遡ると、浅井家はもともと北近江の守護・京極家の被官であり、近江の一国人に過ぎません。
それがいつしか主家を凌駕する実力をつけ始めて京極家を圧倒し、ついには小谷城を居城として独立。
長政の祖父・浅井亮政(あざいすけまさ)の時代のことでした。
朝倉家を逆に取り込んだ亮政の外交力
北近江で急速に勢力を増す浅井家に対して危機感を抱いたのは国境を接する南近江の六角家です。
そもそも北近江と南近江の敵対関係は【応仁の乱】からスタート。
北近江の京極家と南近江の六角家はそえぞれ東軍と西軍に分かれて戦い続けておりました。
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応仁の乱の勃発は1467年ですので、亮政の時代から60年以上、長政の時代になると100年以上も前の話で、とにかく長い敵対関係にありました。
もはや北近江と南近江は「ケンカの原因はもはやよく知らんけど、とにかく仲がよろしくない」という状態だったのです。
京極家が没落しても六角家の勢力は旺盛で、京都に近いという地理の特性上、近畿地方で台頭してきた三好家と勢力争いを繰り広げる細川管領家に度々援軍を出していました。
一時期は幕府の役職「管領代」まで得たほどです。
そんな名門六角家にとって、京極家の勢力に取って代わる新興の浅井家はさっさと潰しておくにこしたことはありません。
六角家は朝倉家を誘い、南北から浅井家の取り潰しにかかります。
ちなみに朝倉家もこの時期の有力大名の一つで、六角家同様、京に度々援軍を出していました。
新興の浅井亮政にとっては、単独で六角家と朝倉家という当時の二大巨頭に挑むほどの力はありません。
居城の小谷城は両軍に囲まれ、朝倉家最強の武将・朝倉宗滴には、目の前に付け城を築かれてしまいました。これが後年の小谷城の出城「金吾丸」です。
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しかし、ここで浅井亮政の類稀な政治力と外交力が発揮されます。
なんと浅井家の征伐に来たはずの朝倉家を説得し、逆に朝倉家を浅井家の後見にしてしまったのです。
両者にどういう話し合いが行われたかは伝わっていません。現代に伝わっていないくらい極秘中の極秘だったことは確かです。
名将・朝倉宗滴が納得して受け入れたほどの浅井亮政の提案とは一体何だったのでしょうか。
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