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【道元と曹洞宗】
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座禅の仕方や心得を『普勧坐禅儀』に記す
例によって超訳を挟ませていただくと、こんな感じでしょうか。
「雑用と思うようなことであっても、効率や質の向上を意識して考えることは重要である。それは、仏道修行において悟りを開く道を求めることとさして変わらないし、どちらが尊くてどちらかがどうでもいいということはない」
……余計わかりにくくなった気がしますね。
「道元は大陸に渡ってすぐに大きなカルチャーショックを受けて、気合を入れ直した」ということで。
宋での道元は、およそ四年に渡って各地の僧侶に学び、変相図(地獄や浄土などの様子を描いた仏教画)を見せてもらったり、問答をしたりして、ついに悟りを開いたといわれています。
この間、上記の老僧とも再会し、より深く教えを請うことができました。
その一方で、師の明全が嘉禄元年(1225年)に客死するという、悲しい出来事も経験しています。
遺骨は、道元が安貞元年(1227年)に帰国するときに持って帰ってきたそうです。
帰国した道元は、再び建仁寺に滞在。
大陸で学んできたことを衆生に広めるべく、積極的に活動を始めます。
「座禅こそ仏教の真髄であり、真に救われる道だ」
そう強く信じ、座禅の仕方や心得を「普勧坐禅儀」という書物に著して、禅を広めることに注力したのです。
比叡山から目をつけられていったん避難するも……
先日の記事「法然と浄土宗」と同じく、道元もまた天台宗から目の敵にされました。
そのため寛喜二年(1230年)頃、建仁寺から別のお寺に移っています。当初は衝突を避けたんですね。
しかし、その後あたりから説法を精力的に行うと同時に、他宗への批判もしはじめたので、対立する意思があるのかないのかよくわからないところです。
まぁ、僧侶の本領は「衆生を救うこと」ですしね。
他宗派の僧侶からあーだこーだ言われても「そんなことより救済だ!」と考えたのかもしれません。
あるいは、この時期に広く信じられていた末法思想や念仏・祈祷を道元が批判したことも、対立の原因になっていそうな気がします。
平安時代からの仏教は、末法思想によってこんな感じになっていました。
「もうこの世はおしまいだー! 祈祷をたくさんして、出家して、何とか地獄に落ちないようにしてもらわないと!」
そこを否定されると、いろいろと困る僧侶がいたわけです。ぶっちゃけ飯のタネですからね。
孤雲懐奘との出会い
ある日、孤雲懐奘(こうんえじょう)という僧侶が道元に問答を申し入れてきたことがありました。
懐奘もまた、若い頃から比叡山で学び、その見識を知られた人物です。
「お寺でふんぞり返っているよりも、市井の人々の間に入って皆を救いなさい」(意訳)と母ちゃんに言われて山を降りた……という、親孝行(?)な人でもあります。
後述する道元死後のエピソードと合わせて考えると、一度信頼した相手には徹頭徹尾誠実な人物だったと思われます。
懐奘は問答をするうちに、道元のほうが上だと認め、その場で弟子になりたいと申し出ました。
とはいえ、この時点での道元は間借りしている身でしたので、一度断っています。
その一方で道元の教義に納得する者も増え始めていました。
天福元年(1233年)頃から九条教家(のりいえ)などの寄進によって、自分の道場を構えています。
教家は、道元の母方の親戚にあたりますので、元からある程度の付き合いを続けていたのかもしれません。そうであれば、理解を得やすかったでしょうしね。
懐奘が再び道元の元を訪れ、正式に弟子入りしたのはこの頃。
以後、彼は常に道元に付き従い、その言動を書き留めていたといいます。
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