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【道元と曹洞宗】
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正法眼蔵の執筆に着手
さて、弟子が増えて大所帯になると、何かとトラブルも起きやすいものです。
そこで『典座教訓』という本を書いて、弟子たちに規律を示しています。
“典座”とは、宋で出会った「あの老僧のことを忘れまい」としたことから来ているのかもしれませんね。言葉自体は元々あったものですけれども。
また、この頃から代表的な著作として知られる
『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』
を書き始めたといわれています。
同時に、この頃、比叡山が警戒心を強めます。
世に名を知られた懐奘が道元の門下になったり。他にも僧侶が多々弟子入りしたり。そりゃ危機感を強めますよね。
しかし、今度は道元も真っ向から闘いました。
後ろ盾と弟子たちを得て、自分の考えが間違っていないことを確信し、自信も得たのでしょう。
比叡山がカンタンに引っ込むワケもなく、今度は比叡山の僧侶たちが朝廷に訴え、朝廷も彼らを支持しました。
それに後押しされて、ますます道元らを圧迫する始末です。
もはや「ああ言えばこう言う」状態というか、なんというか……。僧侶なら真っ向から問答を申し込めばいいと思うのですが(´・ω・`)
円爾からの圧力を避け越前へ
さらに、円爾(えんに)という僧侶が道元の道場近くに東福寺を構え、こちらからの圧迫も受けるようになります。
円爾は最初に天台宗の僧侶に学び、その後臨済宗や儒学も学び、さらに宋に渡ったこともある、というかなりのインテリ僧侶。
朝廷にも出入りして禅の講義をし、九条道家らの支援を受けています。
字面が似ているのでややこしいのですが、道元の後ろ盾が九条教家(のりいえ)で、円爾の後ろ盾が九条道家(みちいえ)です。
教家と道家は同母兄弟なので、この二人も密かに対立していたのかもしれませんね。
兄弟で敵対関係になるのも、信仰上の理由で物別れになるのも、珍しいことではありませんし。
道元は弟子たちの提案や、以前から親交のあった御家人・波多野義重の招きにより、最初の道場から現在の永平寺(福井県吉田郡)に移転。
義重がこのあたりの地頭を務めていたので、土地を寄進したのだそうです。
現在でも義重の子孫の方々は永平寺と深い付き合いがあるのだとか。政治や婚姻が絡まない関係で800年近く……って、なかなか珍しい話ですね。
道元と懐奘は死後も先師と侍者で
道元は永平寺を開いた頃から、より厳しい修行を自らに課し、在家成仏や女人成仏を否定するなど、さらに厳格な教義を説いています。
その名は鎌倉にも聞こえていたらしく、宝治元年(1247年)には執権・北条時頼の招きにより、鎌倉に下ったこともありました。
時系列的にどちらが先かよくわからないのですが、この年はあの宝治合戦もあった年です。
時頼は元々信仰心厚い人だったようですし、いろいろと思うところがあって、仏教に救いを求めたのでしょうか。
道元は半年ほどで越前へ戻り、その後病気のため、永平寺を懐奘に譲りました。
京都の弟子のところへ滞在しているときに亡くなったとされています。
建長5年(1253年)8月28日のことでした。
享年54。
永平寺を引き継いだ懐奘は、その後『正法眼蔵』の整理も行いました。
それがさらに懐奘の弟子たちによってまとめられ、現代に伝わっています。
そして曹洞宗は「道元様の教えを守り続けるべきだ」という派と、「より多くの人を救うために、道元様が取り入れなかったこともやるべきだ」とする派に分かれたりもしましたが、懐奘はその調停に務めていたといいます。
また、懐奘は道元の霊廟の脇に自分の部屋を作り、自分が亡くなる間際にも「私のことは先師(道元のこと)の侍者として扱うように」と言い遺しました。
最期までどころか、死んでも道元の弟子であり続けることを選んだのですね。
永平寺では懐奘の意志を尊重し、今でも道元の廟所には毎日真夜中に懐奘がやってくるとして、常に廟所の扉を少しだけ開けているのだとか。
また、寺院内の見回りも懐奘がやってくる時間を外しているのだそうです。
ええ話や(´;ω;`)ブワッ
今もお世話をされている僧侶……というと空海が有名ですが、道元も同じように尊ばれているんですね。
オカルトといってしまえばそれまでですが、こういうじんわりイイ話もちょくちょく見られるのが、文化史や宗教史の醍醐味だと思います。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「道元」
道元/wikipedia
孤雲懐奘/wikipedia