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【伊達政宗】
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急がないと小田原に遅れちゃう!
天正18年(1589年)正月。
新たに手にした会津黒川城(会津若松城)で新年を迎えつつ、政宗はこう詠みました。
七種を一葉によせてつむ根芹
前年の夏から一気に勢力を拡大した高揚感が伝わってきます。
先の段で政宗はパーティしたいのに終わらせなければいけない、と書いてはいますが、彼だってただノリノリでいたわけではありません。
こんな歌を詠みつつ、南では北条氏政・氏直と豊臣秀吉の対立が深刻化していることを認識。他の奥羽の大名も一刻も早く上洛しようと行動を起こし、秀吉に鷹や馬を贈っています。
「はぁ、秀吉? 知らねーし!」なんて無視していたわけではありません。
贈答品ばかりでなく、何度も使者を上洛させています。天正17年(1588)夏には蘆名氏との戦闘についても弁明し、さらにのちには「探題職として陸奥の統治は任せて欲しい」とも秀吉に伝えておりました。
しかし返答は「いいからお前が上洛して、自分でちゃんと弁明しろよ」というもの。
政宗は会津を手にした高揚感と、上洛へのタイムアップが迫る状況に置かれていたのでした。
しかも山形では最上義光が「政宗がちゃんと従うか、俺が見張っていますんで」と、実にうっとうしい監視行動を取っています。
このころ南では、豊臣政権と北条氏の対立がこじれにこじれ、もはや対決は不可避となりつつありました。
そこで豊臣政権は、奥羽の大名に小田原参陣を促します。政宗らにも締め切りが設定されたようなものです。
そして同年(1589年)4月6日、政宗の出馬が決定。
このとき「抗戦か、参陣か」で二分された家中を片倉景綱が「秀吉の軍勢は蠅のようなもので追い払ってもわいてくる」と譬えたと伝わります。
実際のところは、景綱が外交担当者かつ最上からの情報がキャッチできる立場ですので、もっと中身のある話をしたのではないでしょうか。
ところがこの前日、事件が起きます。
義姫が政宗を毒殺しようとして、結果的に小次郎が斬られる――この事件はフィクション作品でも山場かつ見所のあるシーンですが、現代の研究では後世の創作ということでほぼ固まっています。
確かなのは家中が二分され、結果的に小次郎が処断されたという点でしょう(小次郎生存説もありますが)。
かくして色々ありながら伊達政宗は参陣し、所領を安堵されました。
豊臣政権としても、厳しい態度で挑むより、自分たちの意向を土地の者たちに伝える役目を果たす大名がいたほうが好都合だったのです。
奥羽の代表
政宗は陸奥代表、義光は出羽代表。
両者とも豊臣政権下での有力大名として本領を安堵されました。
ただし、会津は没収され、織田信長にも覚えの良かった織豊政権のエリート・蒲生氏郷が入ることになります。
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このとき非常に有名なエピソードがあります。
政宗が「白装束=死に装束」をまとい、髪の毛を水引で結び、諸大名が見守る中、秀吉に対面するというものです。
そこで実際、秀吉は、手にした杖で政宗の首をつつき「もう少し遅れたら危なかったな」と言いました。
漫画以上にマンガチックでドラマティックなこの展開に対し、
「死ぬかと思った……首に熱湯がかかったみたいでマジ怖かった……」
と後に回想する政宗さん。これぞ戦国ファンを痺れさせるエピソードの代表的存在かもしれません。
同時にこの一件は「さすが、我らの政宗さん! 俺たちにできないことを平然とやってのける! シビれる! あこがれるゥ!」という感じで受け入れられがちですが、一方でこういう風に考えることも可能です。
「政宗、遅刻したら大変なことになるぞ。遅れるにしても、きちんと連絡すべきだって言ったよね。ちゃんと忠告を聞かないから、死に装束パフォーマンスすることになったんだぞ、危ないな」
と、常識的なツッコミを入れたい方もおられると思うのです。
例えば、政宗よりも小田原入りが遅れたけれども、事前のアポあり、おもしろ芸ナシで参陣している最上義光さんとか。
ちなみに政宗は小田原だけではなく、このあとの宇都宮攻めでも遅刻していて、「ホントすみません、人馬が疲れてこんな遅れちゃうなんて予想してなくて! 寝ないで向かうんで!」と書いた自筆書状が残っています。
白装束の話もカッコイイというより、要するにこういう杜撰なスケジュール管理の結果、遅刻してしまい、それを坊主頭にして謝罪みたいな話にも思えてしまうのです。
個人的に、カッコイイとは思えないのです。
というか、部下だったら胃に穴空くわ!という感じです。
もちろん、部外者から見ればトビキリ面白くて、最高にロックなんすけどね。って、私も一ファンに過ぎませんが。
いずれにせよ命は無事でめでたしめでたし、と言いたいところですが、ちょっと補足。
このとき伊達氏に従属していた(=馬打ち)大名の大崎氏や、正室・愛姫の実家である田村氏(政宗死後に再興)らは小田原参陣がかないませんでした。
伊達側から不要とのお達しがあったので、勝手に行動できなかったのです。
結果、彼らは改易となりました。
政宗の派手なパフォーマンスの陰で、ひっそりと歴史を終えた陸奥の大名たちも存在したのです。
再び窮地に陥って、花押に穴は開いて……ない!?
紆余曲折の末、豊臣政権の大名となった政宗は、正室・愛姫とともに上洛します。
若く好奇心旺盛な政宗にとって、それは心躍る日々であったことでしょう。
上洛した奥羽の大名は、田舎者と馬鹿にされる日々にストレスをためて「もう外出もしたくない……」と弱音を吐く者すらいました。
しかし政宗は元気いっぱい、活動的に振る舞います。
日本の中心・京都で、今まで学んできた教養、洗練された文才やファッションセンスを発揮するとともに、最先端の文化や流行を吸収。
実は政宗は若い頃から和歌、漢詩、能、茶道、香といった文学・文化にも関心を示し、そして実際にたしなんでおりました。
伊達家当主として恥ずかしくない振る舞い――と言えば聞こえがよろしいですかね。
こうした行動の根底には、同時に劣等感もありました。
そもそも奥羽の大名は、第一印象から第三印象まで「ド田舎から来た」と思われていたんじゃないかというぐらい、馬鹿にされていました。
政宗はそうした偏見に怯むことなく、才知とセンスを見せ付け、「奥羽だからって馬鹿にするなよ!」と頑張っていたのだと思うのです。
自分の努力とパフォーマンスが奥羽のイメージアップにもつながる、そんな「俺は奥羽代表」という意識があったわけです。
そして豊臣政権への参加により、国元では、国替えに奔走することになります。
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本拠は黒川城から岩出山城へ。ただの引っ越しではなく、家臣の知行替えも伴うものでした。しかし独立性を保っていた家臣たちがなかなか国替えに応じず、調整も骨が折れるものでした。
さらなる困難は、奥羽各地で発生した一揆です。政宗も蒲生氏郷らとともに鎮圧に参加しています。
この一揆の続発は豊臣政権にとっても予想外のものでした。そんな中、政宗の旧領で発生した葛西・大崎一揆は、政宗が裏で糸を引いているのではないかとささやかれ、政宗は弁明のために上洛します。
しかし、政宗に対して厳しい叱責はありませんでした。
このとき、政宗は自分のものとされる「花押に穴が開いていない」と弁明した逸話が有名です。
残念ながら、話自体が江戸半ばに成立した軍記モノです。現在、発見された政宗の文書に、穴の開いている花押はありません。
「黄金でできた磔柱を担いだ」という話もありますが、話を盛っているのではないか、あったとしてもそれが政宗放免の決め手ではない、と思います。
この場面を大河ドラマ『独眼竜政宗』で見たとき、私はカッコイイなぁと感心はしたのですが、こうも考えました。
『笑点』の大喜利じゃあるまいし、ノリと面白さで大名の処分を決めていいものか、と。
つまり、ここで政宗を罰するのがよいか、それとも灸を据えてそのまま置く方がよいか、秀吉らも普通の政治的判断で吟味して、後者を選んだのではないでしょうか。
「やったー、朝鮮に渡ったぞ、頑張るぞ!」って
天正20年(1592)、「唐入り(文禄・慶長の役)」が始まりました。
前述の通り、このとき政宗は派手な装束で京都の人々を驚かせ、話題をさらいます。
特に、政宗の派手なファッションが話題となり、そのことが「伊達者」という言葉の語源であるという説もあります。
が、正しくはありません。この言葉自体は政宗以前にもあるのです。
ただし、「田舎者とは思えないほどセンスいい物を持ってるじゃん」と他の大名に褒められたこともあります。
朝鮮出兵前のパレードがかなり話題になり、京都の人々が大騒ぎして見物したのは事実です。
現存する政宗の武具もセンスのよいものばかりです。
しかし、このときのド派手ファッションを秀吉に気に入られ、渡海せずに済んだ――というのは史実ではありません。
政宗は渡海しております。
しかも「やったー、朝鮮に渡ったぞ、頑張るぞ!」と浮かれている強烈な好奇心の持ち主です。
渡海して喜ぶ――この政宗の態度は大名の中でも珍しいものでした。
当時名護屋城に滞在していた最上義光が「渡海だけは絶対に嫌だ!」とびくびくしていたのとは好対照。
文禄2年(1593年)4月、朝鮮で政宗は西国大名の築城術を吸収し、母親には土産物を探し回ったのでした。
前述の毒殺未遂事件により山形の実家へ戻ったとされている義姫ですが、事件後4年間は岩出山城にとどまっています。
政宗は母に流行の衣類を土産として贈っていました。
義姫は朝鮮にわたった我が子を心配し、三両の現金と和歌を送りました。海を越えたお小遣いと手紙に感激した政宗は、珍しい土産を探し回り、お返しに贈ったのです。
仲がよいですよね。
残念ながら、このあと義姫は、岩出山城での留守中に伊達家の家臣と揉めて、実家に戻ってしまいますが。
そしてこの二年後、政宗は衝撃的な事件に巻き込まれます。
文禄4年(1595年)、政宗と懇意でもあった関白・豊臣秀次が突如、切腹。政宗にとっては従妹にあたる秀次側室の駒姫(最上義光の二女)が、無残にも処刑されてしまうのです。
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政宗と義光には「謀叛を企んでいる」との嫌疑までかけられてしまいます。
疑いは晴れたものの理不尽な疑いをかけられ、豊臣政権に対して大いなる不快感と不信を抱いたことでしょう。
このとき政宗と義光の取りなしをしたのが徳川家康でした。
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慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が亡くなると天下は揺らぎ、徳川家康と石田三成の間で派閥抗争が起こります。
秀吉の遺言で大名同士での婚礼は禁じられていたにも関わらず、家康は公然と無視。
慶長4年(1599年)には、政宗の娘・五郎八姫(文禄3年・1594年誕生)と家康六男・忠輝(天正20年・1592年誕生)との婚約が成立します。
政局は、決裂に向けて動き始めていくのでした。
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