旧暦6月5日は伊達政宗にとって二つの大きなイベントがあった日です。
一つは天正十七年(1589年)の摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)。
もう一つはその翌年、天正十八年(1590年)の小田原参陣です。
これだけ近接した出来事ですので、もちろん密接に関わっています。
一つずつ見ていきましょう。
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摺上原の戦いと小田原参陣は1年ズレの同日
まず摺上原の戦いとは、福島県・磐梯山の裾に広がる平原での戦です。
現在の場所で言うと、ホテル経営で著名な「星野リゾート アルツ磐梯」の付近で行われた戦いであり、東からの伊達軍と、西からの蘆名軍がぶつかりました。
地図で確認しておきますと……。
蘆名側の戦死した3名の家臣を後世に伝えるため「三忠碑」が建てられていて、その辺り一帯が戦場になっています。
「三忠」の中には、地元の戦国ファンや『戦国大戦』というゲーム好きには著名な金上盛備さんも3名の一人に含まれています(詳細は以下の記事へ)。
伊達vs蘆名のキーマンとなった戦国武将・金上盛備~摺上原に散った63年の生涯
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この戦いに至るまでの経緯はなかなか複雑なものがありました。
伊達政宗は18歳のときに家督を継ぎ、父・伊達輝宗以上の積極的攻勢を取りました。
しかし、この過程で撫で斬りなど周辺諸国の恐怖と怒りを買ってしまい、畠山義継という大名に父親を連れ去られてしまいます。
両家の境界線まで追いすがった政宗でしたが、輝宗を救うことはできず、義継諸共射殺せざるをえませんでした。
※輝宗の死に方には諸説ありますが、ここでは大河でも取り上げられているほうにしておきます
なぜ伊達輝宗は息子の政宗に射殺されたのか? 外交名人だった勇将の生涯に注目
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人取橋の戦いを経ての決戦
父を殺すことになってしまった政宗は、その原因となった畠山家を当然憎みます。
が、父親を殺されたのは畠山家の幼い跡継ぎ・国王丸も同じ。
これに「政宗ムカツク」な諸大名がくっつき、人取橋というところで
伊達家
vs
畠山家・蘆名家含むその他東北大名+佐竹家
の戦が起きました。
人取橋の戦いで崖っぷちに立たされた政宗!伊達軍7,800vs35,000連合軍の結果は?
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人取橋の戦いでは諸々の要素が重なって、奇跡的に伊達家が勝ったものの、波乱はここでは収まらず、蘆名家とのリベンジマッチになったというわけです。
蘆名家の跡継ぎ問題も絡んでおり、なかなか背景事情が複雑なんですがここでは割愛。
摺上原の戦いの結果は、犠牲を払いつつも伊達家が勝ち、蘆名家を滅ぼしました。
蘆名家が治めていた会津一帯は政宗の領地となり、奥州と呼ばれていた現在の東北地方のほとんどは伊達家の傘下になったのです。
某ゲームの”奥州筆頭”は多分この辺のイメージなんでしょうね。
豊臣秀吉の戦争禁止令に違反
しかし、上方からするとこれは大問題でした。
既に豊臣秀吉が関白になっており、「勝手にドンパチをやらないように!」という命令(惣無事令)が出ていたからです。
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
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政宗も一応知ってたんですがガン無視!
タダで従うような人でもないですしね。
年内は蘆名家の残党平定などでバタバタしていたのですが、年が明けてから状況が一変します。
秀吉が小田原の北条家を討つべく、関東へやってきたのです。
小田原征伐で秀吉相手に退かず!北条家の小田原城はどんだけ強いのか
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上方に比べれば、関東と東北は目と鼻の先も同じ距離。
いよいよ無視できない状況に陥っていきます。
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