細川藤孝(細川幽斎)

細川藤孝(細川幽斎)/wikipediaより引用

細川家

細川藤孝(幽斎)は文武芸術に通じた光秀の盟友~されど本能寺後は

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
細川藤孝(細川幽斎)
をクリックお願いします。

 

ついには天皇の勅命による講和を引き出す

細川藤孝の戦意は常にMAXでした。

弟子の一人である八条宮智仁親王という方が講和を呼びかけても

「ありがたいお話ですが、ぶぶ漬けどうぞ^^」(超訳)

という態度。

しかもただ断るだけでなく、貴重な和歌集などを献上するという徹底振りです。

どこからどう見ても言うことを聞くつもりがありません、本当にありがとうございました。

八条宮智仁親王/wikipediaより引用

とはいえ、やはり細川藤孝を死なせるわけにはいかない――。そう判断した智仁親王は、ついに最後の手段に出ます。

実兄・後陽成天皇の勅命による講和を引き出したのです。

戦国時代の天皇というと、とかく軽視されがちですが、さすがの細川藤孝も意地を張り続けることはできません。

講和が成ったのは9月13日、関ヶ原本戦の2日前というギリギリぶりで、藤孝も幸隆も命が助かり、さらに西軍の戦力を削ぐという大きな功績を挙げることになります。

ちなみに田辺城を包囲していたいた15,000という兵力は、戦国のユダこと小早川秀秋が率いていたのと同等の数です。

講和時点では当然もっと減っていたでしょうけども、この数字を見ると細川親子の働きがいかに大きかったかが窺えます。

小早川秀秋
関ヶ原の裏切り者・小早川秀秋はなぜ東軍に?儚い21年の生涯まとめ

続きを見る

もしかしたら、細川藤孝はそれを見越して粘ってたんですかね。

頭のイイ人は恐ろしい。

 

生涯側室をもたず=NHK大河ドラマ候補か

関が原の時点で既に70歳近かった細川藤孝。

その後、慶長十五年(1610年)に亡くなるまで、今度こそ本格的な隠居生活をしていたそうです。

彼は生涯側室を持たず、この頃も正室が存命していましたので、老夫婦で仲良く暮らしていたのではないかと思われます。

隠居所も生地・京都東山に近い吉田ですから、まさに理想の老後ですね。

ここまで見ると愛妻家以外に息子との共通点があまりなさそうに見えますが、ブッ飛んだセンスにおいては血筋を感じる逸話もあります。

しかしやはり歌に関するものが多いのは流石というか何というか。

個人的には江戸時代に入ってからの話で、

【江戸城でうたた寝してたら芝の屋敷が燃えていた。一句詠んだ。家康が褒めた】

という話が好きです。

訳はざっくりですが、風流を極めるとこうなるんでしょうか。カッコイイと言うしかありません。

その他にも良い意味でネタに事欠かない方なので、文武両道タイプがお好きな方は彼について調べてみてはいかがでしょうか。

あわせて読みたい関連記事

足利義晴
不安定だった12代将軍・足利義晴~義輝や義昭の父40年の生涯とは

続きを見る

足利義輝
刀を握ったまま斃れる壮絶な最期~足利義輝13代将軍の生涯30年まとめ

続きを見る

永禄の変
永禄の変で13代将軍・義輝自ら刀で応戦!敗死に追い込まれた理由とは

続きを見る

和田惟政
信長と義昭の狭間で苦悩した和田惟政~甲賀の戦国武将その生涯

続きを見る

足利義昭
信長と共に上洛し京を追われた足利義昭(15代将軍)その後どうなった?

続きを見る

明智光秀
史実の明智光秀とは?麒麟がくるとは何が違ったか?55年の生涯まとめ

続きを見る

細川忠興
名門武家の御曹司・細川忠興はキレ体質~妻を偏愛した生涯83年とは

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
桑田忠親『細川幽斎 (講談社学術文庫)』(→amazon
細川幽斎/wikipedia
まいづる観光ネット(→link

TOPページへ

 



-細川家
-,

×