細川藤孝(細川幽斎)

細川藤孝(細川幽斎)/wikipediaより引用

細川家

細川藤孝(幽斎)は文武芸術に通じた光秀の盟友~しかし本能寺後は

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藤孝と光秀。

両者とも、この出会いをキッカケに、徐々に信長の家臣のような働きをするようになっていきます。

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当初は

義昭

藤孝・光秀

信長

といった感じで間を取り持っていたんですね。

ハッキリと織田家の下に付くようになったのは1573年。険悪化していた信長と足利義昭の仲が決定的に分裂してから、織田の傘下に入りました。

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40歳で長岡(現・京都府長岡京市あたり)の領地を信長からもらったので、一時期、長岡姓も名乗っております。

 

光秀の娘ガラシャの「おとうさん」に

細川藤孝にとって、ある意味、最も大事件だったのは息子・細川忠興の奥さんかもしれません。

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その名も細川ガラシャ

明智光秀の娘・明智玉子です。

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このころ長男・忠興と彼女の婚姻が決まり、前後して光秀と行動を共にすることが多くなりました。

そして1582年に本能寺の変が勃発。姻戚関係的に本件と深く関わってきそうですが、ここでまた細川藤孝は極めて現実的な選択をします。

光秀から再三の要請を受けたにもかかわらず、

「私は信長様の死に哀悼を示し、出家します。後のことは息子がやりますのでよろしく」(超訳)

という返事を出し続けました。

いかにあの忠興でも父親の方針と真逆の行動を取るわけにはいきません。細川親子は揃って光秀への与力を拒否します。

前述の通り細川藤孝には異母兄の三淵藤英(みつぶちふじひ)がおりましたが、藤英が光秀の坂本城で自害に追い込まれており、この一件から恨みを抱いていたなんて見方もあります。

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いずれにせよ、本来は協力して然るべきだった姻戚関係の家や、旧知の仲である大名への根回しができていなかったことは、光秀が最終的に天下を取れなかった理由の一つとも言われていますね。

また【突発的に】信長を殺したと読める要素でもあります。

本能寺の変、最大のナゾである光秀の動機については考え始めると止まらなくなりますので、よろしければ以下のマトメ記事をご覧ください(記事末にもリンクございます)。

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関ヶ原では東軍 15000vs500の大ピンチにも

豊臣秀吉の天下になると、細川藤孝はその教養を高く買われ、武士としてというより文化人として茶会や歌会などの仕事を多くするようになります。

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名目上は隠居の身という理由もあったでしょう。

この頃すでに50歳を超えていますから、当時の感覚としては自他共に「棺桶に片足突っ込んでる」と思っていたとしてもおかしくはありません。

そして彼の人生で歴史的に最後の見せ場だったのは【関ヶ原の戦い】です。

細川藤孝は既に豊臣一門を見限っており、家康に接近していたので当然東軍側でした。

丹後・田辺城(現・京都府舞鶴市)の守将になっており、ここを15,000もの西軍に取り囲まれてしまいます。

城兵は500程度だったそうで、単純な兵数だけでも30倍の戦力差。

これはひどい。さすがに終わった……と思いきや……。

藤孝の守る城側は戦意が高く、また三男・幸隆が一緒にいたことも心強かったらしく、なんと50日もの間持ちこたえました。

やっぱり合戦は、気の持ちようが大事なんですかね。

攻め手の武将には、細川藤孝の歌道の弟子が何人もいたのも大きかったでしょう。「お師匠様に弓を引くのはちょっと……」という引け目もあったようです。

そもそも田辺城は忠興の城だったので、そこに藤孝がいることは事前にわかっていて当然なのですがこのグダグダっぷり。

田辺城の戦いは6月~9月。

関ヶ原の本戦直前に行われています。

この時点で西軍の戦略のまずさがありありと見て取れます。

 

古今伝授は細川藤孝さんしか知らへんのやで

田辺城の戦いで、大慌てになったのは、石田三成でも徳川家康でもなく朝廷、もっと言えば皇室の方々でした。

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もちろん西軍のgdgdぶりに対する危機感ではなく、「細川藤孝が危ない」ということでした。

当時、藤孝は上記のチートぶりに加え【古今伝授】という秘伝を受け継いだ唯一の人物として知られていました。

何か必殺技みたいな名前ですが、武道ではなく和歌の話です。

平安時代勅撰和歌集・古今和歌集の解釈について、代々語り伝えてきたいわば”秘伝のタレ”みたいなもので、この時代、細川藤孝以外にそれを知る人物はいなかったのです。

そのため「アイツが死ぬと誰もわからなくなる!それはマズイから早く戦をやめさせよう!」という話になったのです。

何だか微妙に美しくない話のような気がしますが、気にしないでおきましょう。
しかし……。

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