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【細川藤孝(細川幽斎)】
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ついには天皇の勅命による講和を引き出す
細川藤孝の戦意は常にMAXでした。
弟子の一人である八条宮智仁親王という方が講和を呼びかけても
「ありがたいお話ですが、ぶぶ漬けどうぞ^^」(超訳)
という態度。
しかもただ断るだけでなく、貴重な和歌集などを献上するという徹底振りです。
どこからどう見ても言うことを聞くつもりがありません、本当にありがとうございました。
とはいえ、やはり細川藤孝を死なせるわけにはいかない――。そう判断した智仁親王は、ついに最後の手段に出ます。
実兄・後陽成天皇の勅命による講和を引き出したのです。
戦国時代の天皇というと、とかく軽視されがちですが、さすがの細川藤孝も意地を張り続けることはできません。
講和が成ったのは9月13日、関ヶ原本戦の2日前というギリギリぶりで、藤孝も幸隆も命が助かり、さらに西軍の戦力を削ぐという大きな功績を挙げることになります。
ちなみに田辺城を包囲していたいた15,000という兵力は、戦国のユダこと小早川秀秋が率いていたのと同等の数です。
講和時点では当然もっと減っていたでしょうけども、この数字を見ると細川親子の働きがいかに大きかったかが窺えます。
なぜ小早川秀秋は東軍に走ったのか 関ヶ原の裏切り者 儚い生涯21年まとめ
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もしかしたら、細川藤孝はそれを見越して粘ってたんですかね。
頭のイイ人は恐ろしい。
生涯側室をもたず=NHK大河ドラマ候補か
関が原の時点で既に70歳近かった細川藤孝。
その後、慶長十五年(1610年)に亡くなるまで、今度こそ本格的な隠居生活をしていたそうです。
彼は生涯側室を持たず、この頃も正室が存命していましたので、老夫婦で仲良く暮らしていたのではないかと思われます。
隠居所も生地・京都東山に近い吉田ですから、まさに理想の老後ですね。
ここまで見ると愛妻家以外に息子との共通点があまりなさそうに見えますが、ブッ飛んだセンスにおいては血筋を感じる逸話もあります。
しかしやはり歌に関するものが多いのは流石というか何というか。
個人的には江戸時代に入ってからの話で、
【江戸城でうたた寝してたら芝の屋敷が燃えていた。一句詠んだ。家康が褒めた】
という話が好きです。
訳はざっくりですが、風流を極めるとこうなるんでしょうか。カッコイイと言うしかありません。
その他にも良い意味でネタに事欠かない方なので、文武両道タイプがお好きな方は彼について調べてみてはいかがでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
桑田忠親『細川幽斎 (講談社学術文庫)』(→amazon)
細川幽斎/wikipedia
まいづる観光ネット(→link)