仁治2年(1241年)8月20日は『百人一首』を選定したことで知られる藤原定家の命日です。
漫画『ちはやふる』で脚光を浴びた百人一首。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも和歌は注目されましたよね。
というのも藤原定家はまさに同時代に生きた人物であり、源実朝の歌も選ばれているのです。
では実朝はどんな歌を詠んだのか?
そもそも藤原定家はなぜ百人一首の歌を選定したのか?
成立の舞台裏について見てみましょう。
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「百人一首」と呼ばれたのは室町
百人一首の中にどんな歌が収められているか。
これについてはご存じの方も多いかと思いますが、百首が選ばれた経緯や背景事情については案外知られていないのではないでしょうか。
そもそも、なぜ「百人の歌人の歌を一つずつ選ぶ」なんて面倒なことをしたのか。
選者である藤原定家が知人の宇都宮頼綱に頼まれたからです。
撰歌だけでなく「別荘に飾りたいから、揮毫(きごう・飾るために色紙などへ字を書くこと)もお願いしたいな!」とまで言われたので、定家は「私そんなに字が上手じゃないんですけど」と思ったそうです。
が、「書いてほしいなー(チラッチラッ」(※イメージです)と念を押されてやむなく揮毫も引き受けたのだとか。
そんな経緯だったので、最初から“かるた”ではありませんでした。
『百人一首』と呼ばれるようになったのも後世のことです。
その名がついたのは室町時代。
かるたになったのは江戸時代のことでした。
「一首」には駄作が多い!?
他にも定家は『百人秀歌』という歌集を制作。
百人一首の原型になったともいわれています。
その一方で「一首」を修正して「秀歌」にしたという説もあり、この辺はハッキリしていません。
さらに「一首」と「秀歌」の共通点や相違点から、「暗号が隠されているのではないか?」と考える人もいます。
なぜかというと「優れた歌を選ぶ」という観点からすると、「一首」には駄作が多いといわれているからです。
代表例は藤原公任(きんとう)ですかね。
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ(五十五番)
意味がすんなり伝わってくるので、現代の一般人にとってはむしろ好ましいような気もするのですが、昔から歌壇や国文学の世界では「公任ならもっと良い歌があるのに、わざわざこんなの選ばなくても」と評する人が多いようです。
他にも、山岡子規が酷評したのがこちら。
心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花(二十九番・凡河内躬恒)
「和歌のプロである定家が選んだにしてはどうよ」とされています。
子規が酷評した理由は「いくら霜が積もったとしても、白菊がわからなくなるわけないだろwww」(超訳)ということらしいのですが、そんなこと言ったら比喩法のほとんどはダメになるんでは?と……。
それでも、歌の出来には関係なく、百人一首の順番や歌の情景に意味があるとしたら納得できる、ということで暗号説が生まれたわけですね。
また、「秀歌」には入っておらず、「一首」に入っている歌として、後鳥羽上皇と崇徳上皇の歌があります。
いわずもがな【承久の乱】首謀者たちですね。
そのため「一首」を選んだ後、政治的配慮等を踏まえて「秀歌」を選んだのではないかという説もあります。
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