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最後の源氏将軍・実朝に和歌の通信教育
そんな感じで、現代ではいろいろな憶測を呼んでいる歌集でもあります。
個人的にはちょっと考えすぎのような気がするんですけどね。プロだからって技巧に富んだ歌しか取らないわけでもないでしょう。
というのも、定家は確かに和歌のプロですが、技巧至上主義者でもなさそうだからです。
彼は最後の源氏将軍・源実朝に和歌の通信教育のようなことをしており、絶賛はしていないにしても好意的に見ていました。
その実朝の歌は、技巧を生かしたとか当時の最先端というよりも、シンプルで率直な表現が多いのです。
百人一首にも次の歌が入っています。
世の中は つねにもがもな なぎさこぐ 海人の小舟の 綱手かなしも(九十三番)
【意訳】世の中は絶えず移ろうものだが、あの小船とそれを漕ぐ漁師の営みのように、ずっと平穏であってほしいものだ
前半の部分がわからなくても、実朝が海人=漁師=市井の人々の暮らしを思い浮かべたことや、「かなし」という言葉から何となく切なさが伝わってきますよね。
『明月記』にはどう書かれてる?
定家本人は立場上プロとして技巧的な歌を詠まなければならない、尊ばねばならない――そんな立場だとしても、他の人の歌に出てくる素朴な表現も嫌いではなかったのではないでしょうか。
ましてや百人一首はもともと勅撰歌集ではなく、個人のために選んだものですから、定家個人の好みを強く出しても構わなかったわけですし。
もちろん、暗号説を否定するつもりは全くありませんが、そういうこともありえるんじゃないかなぁと感じます。
定家もまさか、個人のために選んだものが国中に広まるなんて考えていなかったでしょう。
いつもならここで「定家の日記でも見つかればいいんですけどねえ」と〆るところです。
しかし、彼の場合『明月記』という日記がきちんと残っているにもかかわらず、百人一首のことは「人に頼まれたから百人の歌を一つずつ選んだ」くらいしか書かれていなかったりします。
これもやはりタイムマシン待ちの案件ですね。
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長月 七紀・記
【参考】
田辺聖子/岡田嘉夫『田辺聖子の小倉百人一首』(→amazon)
百人一首/Wikipedia
藤原定家/Wikipedia