天正2年(1574年)7月6日、信長に命じられ自刃した幕臣・三淵藤英――以前は無名だった戦国武将が一気に世間に知られるようになりました。
大河ドラマ『麒麟がくる』で谷原章介さんが演じていたからです。
当代きっての風流武将・細川藤孝(細川幽斎)の兄にあたり、足利義昭の上洛&将軍就任に際しては、ひとかたならぬ貢献をし、本来であればもっと以前から知られていても不思議ではなかった人物。
しかし、実際はそうではありませんでした。
大河ドラマのように、史実の三淵藤英も、義昭と信長の間で激しく苦悩し、志半ばにして自害へ追い込まれていたから。
そして、その自害に関わったのが『麒麟がくる』の主人公であった明智光秀です。
・織田信長
・明智光秀
・細川藤孝
・足利義昭
という大河ドラマの中心人物4名と
彼らを結びつけたキーパーソン・三淵藤英
一体どんな生涯だったのか?
史実に基づき、三淵藤英の事績を振り返ってみましょう。
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弟と共に将軍を支えた三淵藤英
三淵藤英は生年が不明ながら、ある程度の推測はできます。
弟の細川藤孝が1534年6月3日生まれなので、それより数年前、享禄から天文のはじめあたり(1528年からの数年間)でしょう。
1534年と言えば織田信長が生まれた年でもあります。
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父は室町幕臣として12代将軍足利義晴に仕えた三淵晴員。
藤英は、後継者となることを期待されておりました。
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経歴だけ見ると、
『身分の高い生まれで、戦乱とは無縁では?』
と思われるかもしれませんが、さにあらず。
彼には特筆すべき点がありました。
前述のとおり、実弟(異母弟とも)が「戦国最強の文化人」として名高い細川藤孝(細川幽斎)だったのです。
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細川と三淵――。
二人の名字が違うのは、次男として誕生した藤孝が養子として細川晴広へ送られたから。
藤孝は姓を「細川」と改めましたが、兄弟離れ離れになったとはいえ両者共に幕臣の家系であり、後には幕府の奉公衆として将軍を補佐していきます。
13代将軍義輝の暗殺事件
藤英が史料に登場するのは天文9年(1540年)のこと。
当時、父と同じく12代将軍・足利義晴に仕えており、相国寺鹿苑院へ使者として派遣されています。
この頃の年齢は、おそらく10歳そこら。
子供が使者になるなんて……と、時代の違いを感じさせますが、その後、洛中で起きた権力争いの結果、将軍・義晴は京都を離れて坂本への移動を余儀なくされ、天文15年(1546年)には息子の足利義輝へ将軍職を譲りました。
藤英も義輝へと主君を変え、弟の藤孝と同じく足利義輝の京都復帰と権力確立のために奔走します。
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兄弟の尽力もあり、永禄元年(1558年)に5年ぶりの帰京を果たした義輝。
各地の戦国大名と積極的な交流を図ることで体制の安定化を目指します。
彼に仕えていた藤英が、当時、どのような行動をしていたのか?
具体的に把握することは難しいですが、弟・藤孝の動きから察するに、それまでの期間と比べて平穏な日々を送っていたようです。
ようやく将軍の周囲が落ち着いた――。
そう思われた矢先の永禄8年(1565年)5月18日、藤英ら幕臣だけでなく日本史を揺るがすような大事件が発生します。
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ようやく京都に復帰して室町幕府再興。
その矢先の凶事でした。
「次期将軍は覚慶でいかがだろう?」
将軍暗殺という一大事に、二人は多大なショックを受けたでしょう。
しかし落ち込んでもいられず、すぐさま次の一手を講じます。
「次期将軍は、覚慶にしてはいかがだろうか?」
実は暗殺された義輝には、興福寺一乗院で僧侶を務める覚慶という弟がおり、この僧を擁立しようと考えたのです。
とはいえ、ことはそう簡単ではありません。
三好三人衆や松永久秀らは、足利義栄を次期将軍職につけるため、覚慶が余計な動きをしないよう興福寺一乗院に幽閉したのです。
厳しい監視体制の中。
覚慶は、如何にして寺を脱出したか?
詳細は不明ながら、医学に詳しい米田求政が医者に化け、監禁場所や逃走ルートなどの下調べをしたと言います。
彼ら幕臣だけでなく興福寺僧侶の協力も得られたようで、同年7月28日、藤英や藤孝ら幕臣は囚われの身にある覚慶を救出し、まずは近江の和田惟政を頼り、その後、紆余曲折を経て越前朝倉氏のもとへと出向きました。
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将軍候補の身でありながら、流浪の生活を送る覚慶は永禄9年(1566年)2月17日、還俗して足利義秋となります。
そして、その2年後に足利義昭へ改名。
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以後、藤英は義昭の将軍就任に向けた活動を補佐していくこととなるのでした。
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