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【三淵藤英】
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信長の協力を取り付け義昭が15代将軍
朝倉氏の庇護下に入った義昭は、京都復帰と将軍就任を目指し、諸大名へ協力を要請します。
彼が文書を発給した大名の数は非常に多く、その中でも特に手助けを期待していたと思われるのが上杉謙信と織田信長でした。
まずは謙信。
12代将軍・足利義晴のころより懇意な関係にある上杉家にまずは望みをかけました。
が、関東で北条氏康や信濃で武田信玄との抗争に明け暮れている身では、そう簡単に上洛の支援はできません。
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次に協力を見込んだのは織田家です。
すでに永禄8年(1565年)には藤孝の仲介で、信長と義昭の間に交流をもたせておりました。
義昭の要望に対し信長は「いつでも上洛にお供いたします」と非常に前向きな返答を行っており、義昭の幕臣らは彼に大きな期待をかけたことでしょう。
ところが、永禄9年(1566年)になると、これまで上洛に乗り気であったはずの信長が突如として協力を渋り始めるのです。
永禄11年 いざ上洛へ!
実際に、どうやって上洛するか?
おそらくや、信長はそこを考え、冷静になったのでしょう。
このころはまだ美濃・稲葉山城(岐阜城)を制してはおらず、尾張から軍を引き連れての入京は実質不可能な状況にありました。
小規模(80人ほど)の伴を連れての上洛であればすでに経験があります。
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しかし、一定規模の軍を連れてとなると俄然話は変わってきて、美濃だけでなく、近江でも敵が待ち構えており、現実的ではありません。
こうしている間にも藤英は、同じく幕臣の和田惟政らと共に別の上洛工作も手掛けるなど、本気であることがわかります。
信長とは、いささか距離感があるんですね。
そしてこの距離感こそが、後に藤英と藤孝の運命を左右するのですが……それは後述するとして、結局、信長が再度上洛に協力を表明するのは永禄10年(1567年)に稲葉山城の戦いに勝利して美濃を治めた後のことでした。
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永禄11年(1568年)9月7日――いざ上洛へ!
義昭ら一行は、織田信長という後ろ盾を獲得して、道中の六角氏を打倒。
仇敵・三好三人衆も、信長を警戒して京都を離れるなど、上洛の障害はすべてクリアされ、同年9月28日、義昭は悲願であった京都入りと将軍職就任を果たすのでした。
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数年の流浪を経てようやく将軍に就任した義昭の晴れ姿を眺める幕臣たちの心情にも、さぞこみ上げるものがあったでしょう。
幕府奉公衆として側近として活躍
ここまで義昭の将軍職就任への流れと共に三淵藤英の足跡を振り返ってきました。
個人的に細川藤孝や和田惟政と比べてインパクトが薄く感じるのですが、それはやはり信長との交流が少なく、特徴的な逸話もないためです。
しかし、藤英が何もしていなかったことにはなりません。
義昭が将軍となって以降は、
・幕府の奉公衆として
・義昭の傍らに仕える側近として
信長と義昭の二頭体制で大きな存在感を発揮するようになります。
地味ではあるのですが、藤英が幕府の実務処理を担ってもおりました。
以下、その両面から藤英の活躍を追っていきましょう。
まず、藤英は幕府奉公衆の一員として多数の戦に参加をしております。
一番派手なのが【本圀寺の変】でしょう。
永禄12年(1569年)1月4日、京都帰還を目論む三好三人衆が将軍・義昭のいる本圀寺を襲いました。
が、三淵藤英や細川藤孝、三好義継、明智光秀らが、守備側が寡兵ながらよく戦い、将軍の窮地を救っています。
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時系列を無視して記述しますと、高槻城での戦いや、三好長勝らとの合戦、あるいは高屋城や京都留守衆としての働きなど、数多の戦歴が残されています。
実務面では、書類の発給や取次などの業務にも携わりました。そして……。
合戦や日常業務なども的確にこなす藤英は、幕府内で大きな力を有し、その事実は外部の人間も知るところであったようです。
実際、戦国時代の一級史料としてしばしば参照される『兼見卿記』の作者・吉田兼見が、藤英を頼りにしており、その影響力が想像できます。
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もともと兼見が弟・藤孝とイトコという関係にあり、藤英のもとへ何度も足を運んでいるのです。
また、時期は定かでないものの、藤英は京都・伏見城主にも任じられ、山城国内に相応の知行地を持っていたと考えられます。豊臣秀吉が築いた伏見城とは別の城で、「三淵伏見城」については詳細がよくわかっていません。
以上の点からも、藤英は幕府内で安定した地位を築いていたことがわかります。
が、時同じくして信長と義昭の対立が表面化していき、幕臣たちは「理想と現実」の狭間で苦しめられるようになっていくのです。
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