巌流島の戦いと言えば?
宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った――その流れの「一般常識」としては、ツバメ返しの達人・小次郎を、武蔵はわざと大幅に遅刻することで、じらして勝負を有利にし、船の櫂をけずった木刀で倒した――ことになっている。
ところが、これは史実からは大きく離れている、というのが最近の研究だ。
岩波新書「宮本武蔵」で国際武道大教授(日本思想史)の魚住孝至さんによると、一般常識の巌流島の戦いは、あくまで吉川英治の小説『宮本武蔵』の描写によって定着したものであるという。
一般的なイメージの巌流島の対決は小説だった
吉川版の元ネタは、1776年に書かれた『二天記』がベース。
この年は、武蔵(1584?~1645年)が死んでなんと約130年も後であり、史料性は極めて低い。
では、もっと信憑性の高い史料はないのか?
ある。
武蔵の死後9年目に、武蔵の養子となった宮本伊織が建立した顕彰碑「小倉碑文」だ。
そこには「両雄同時に相合し」とあるから、巌流島に武蔵が遅刻したということはなかった。
さらに「岩流三尺の白刃を手にして来り(略)武蔵、木刀の一撃を以て之を殺す。電光猶ほ遅きが如し」とあり、そもそも「佐々木小次郎」という名前すらなかった!
佐々木の姓がでる(小次郎というのは古くから伝わっていた)のは『二天流』が初めて。
それも当時の歌舞伎からとったらしい、と、魚住教授は、このテーマを特集した朝日新聞の取材にコメントを寄せている。
死後わずか9年後の記録なので、あまりにも大きなウソはないだろうとの見方だ。
一方、17世紀(1682年)の『沼田家記』には、こんなコトが記されている。
戦いの後、小次郎が蘇生すると、それを隠れ見ていた武蔵の弟子が殺した。
それで怒った小次郎の弟子が武蔵に復讐しようとしたが、武蔵が門司城(巌流島の対岸)の城代・沼田延元に助けをもとめ、豊後(大分県)まで送り届けたという。ちと、情けなや。
「たけぞう」も「小次郎の衣装」も全部創作
なお、驚くべきことに「武蔵」の幼年期の呼び名「たけぞう」も吉川氏の創作だった。
小次郎が美少年だったり、さらにその年齢についても60歳の老人説と20歳前後だったとの両説があった。
吉川氏は自身の作品「小説のタネ」でこう明かしている。
「どっちにとろうか、迷ったんです。そして結局、小次郎の年齢は若い方をとったんです。
そしてああいう扮装のアイデアも僕のデザインで拵えたものですが、(略)今では小次郎スタイルっていうとあれでないと小次郎らしくなくなっちゃった」
吉川氏をすごいと褒めるべきか……。
川和二十六・記
【参考】
朝日新聞(2013/7/8)の「文化の扉」
『宮本武蔵―「兵法の道」を生きる (岩波新書)』(→amazon)
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