絵・小久ヒロ

最上家

最上家臣の北楯利長が庄内平野を大工事!水馬鹿の意地とは【東北戦国譚】

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
北楯利長
をクリックお願いします。

 

およそ6000人を動員して、大工事が始まった

大堰の工事に動員されたのはおよそ6000人でした。

人夫は徴発とはいえ、給金と食事が出るため喜ぶ者もいたそうです。

険しい傾斜地が現場。

掘ったと思ったら崩れてくるような難工事であり、事故に巻き込まれて16人も生き埋めになったこともありました。

利長はこの事故に深く心をいためました。

こんな話もあります。

あるとき、地面を掘っていた人夫が大慌てで利長の元にやってきました。土の中から金銀財宝を入れた壺が出てきたというのです。

利長はこう言いました。

「これはきっと埋蔵金だろう。そなたらの心がけがよいからこのような功徳があったのだな。取っておきなさい」

これを聞いた人夫たちは大喜びで作業を再開しました。

実はこれは埋蔵金ではなく、利長が事前に埋めておいたプレゼント。

懸命に工事を行う利長たちに、山形の義光も心を寄せていました。利長と工事の進捗をやりとりし、その様子をとても喜んでいました。

高齢であり病がちであった義光は現場に行けないことを詫び、利長に「川風が冷たいだろうから」と褒美に頭巾を贈りました。

利長の肖像画や銅像は必ず頭巾を身につけていますが、この義光からのものをかぶっているという設定なのでしょう。義光は江戸にのぼったら幕府の首脳に必ずこの功績を伝えると約束しました。

雪が降り積もった鳥海山は出羽富士とも称されるほどの美しさ

事故のあと、工事は順調に進みました。

秋頃になり最終段階にさしかかったところ、最上川の流れに当たります。なんとしても埋めなければ完成しないのに、急流は埋めたと思ったらすぐ流れてゆきます。

これは川の神が怒っているからに違いない――神をしずめるため、利長は秘蔵の青貝摺の馬の鞍を、流れに投げ込みます。

すると急流は穏やかになり、工事を進めることができました。

この場所には現在【青鞍の淵】という石碑が建てられています。

 

米どころ庄内平野が始まった

慶長17年(1612)秋、およそ10キロにわたる大堰が完成しました。

荒野が肥沃な大地に生まれ変わり、周辺の地域では新田開発が急拡大。石高はおよそ工事前の十倍になったのです。

人々も集まり、新たな村も開拓されました。

義光はこの堰を「庄内末世の重宝」と激賞します。北楯利長は65歳にして、大事業を成し遂げたのです。

最上家の改易後、庄内藩をおさめた酒井家はさらに米どころとして開発を続けました。

その最初の大きな一歩は、北楯利長によって刻まれたのです。

安永7年(1778)には水神社が建てられ、利長が水神として祀られました。

この大堰は現在も使用されています。

利長は水神として「北楯神社」から今日も緑豊かな庄内平野を見守っているのです。

たわわに実る庄内平野の稲と、その向こうには鳥海山

あわせて読みたい関連記事

最上義光は東北随一の名将なり! 政宗の伯父69年の生涯まとめ

続きを見る

大宝寺義氏(東北の戦国武将)が「悪屋方」と呼ばれ嫌われたのはなぜ?

続きを見る

山野辺義忠(義光の四男)と最上騒動~御家改易も水戸で復帰し血を繋ぐ

続きを見る

慶長出羽合戦(北の関ヶ原)で上杉・最上・伊達が激突! 戦術戦略【詳細編】

続きを見る

『信長の野望』は歴史知識を上げる? 最上の「顔グラ&能力値」変遷に注目だ

続きを見る

駒姫(最上義光娘)の処刑は理不尽の極み!東国一の美女が秀次事件に巻き込まれ

続きを見る

最上の戦国武将・鮭延秀綱! 勇猛実直な名将は御家騒動を長引かせ……

続きを見る

大河ドラマ『独眼竜政宗』は名作だ! が、悲しき誤解も産んでしまった

続きを見る

なぜ戦国武将の評価はコロコロ変わる? 特に「鮭様」が乱高下しすぎ問題

続きを見る

上杉家vs最上家に伊達家も参戦で激アツ! 慶長出羽合戦とは【入門編】

続きを見る

記:最上義光プロジェクト(http://samidare.jp/mogapro/

最上義光の知名度アップを目指し、オンラインで情報発信を続けているサイトです。

TOPページへ

 



-最上家

© 2021 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)