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吉川経家が秀吉軍に囲まれ壮絶な籠城戦~鳥取城渇え殺しと“ひらがな”の手紙

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事前に買い占められた兵糧

いつもより人数が多いのですから、当然食料も倍必要です。

そこで付近の農家商家へ米を買いに行かせましたが、時既に遅し。

はじめから兵糧攻めする気満々だった秀吉そして黒田官兵衛によって、既に近隣の米は買い占められた後でした。

黒田官兵衛は本当に秀吉の軍師と呼べるのか?59年の生涯まとめ【年表付き】

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同年6月頃のことです。

これを知った経家は陸海両方から兵糧を入れるための手立てを講じますが、ネズミ一匹通さないほどの包囲網を秀吉軍に敷かれてしまうのです。

命がけで兵糧の運搬に挑む毛利。

そして尽く失敗すると、元々1か月分しかなかった食料はあっという間に尽き、やむを得ず家畜や雑草まで食べ、9月に入ると餓死者が続出し始めました。

ここからはもう地獄絵図としか言いようのない有様です。

いつもだったらその手の描写は省くのですが、かつ江さんが何を訴えたかったのかをご理解いただくため、今回はあえて詳細を書かせていただきます。

苦手な方は飛ばしてくださいね。

 

【鳥取城の惨状まとめ】

信長の功績を称える書として著名な『信長公記』にはこう記されています。

「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女」

「叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、日もあてられず」

もう目を伏せたくなりますが、より具体的な状況を挙げさせていただきますと。

・戦力及び労働力として重要な馬や牛を食べつくし、さらに犬猫ネズミまで食べた

当時の日本に肉食の習慣がほぼなかったことを考えると、この時点で既に相当のものです。

かつ江さんは、手にカエルを持っていましたが、入手できていたらもちろん食べていたでしょう。

・2ヶ月目には先に死んだ者をたべるようになり、そのうちまだ息のある人間も……

江戸時代の四大飢饉のように極限状態ではままあることですが、鳥取城の場合そんな状況が人為的に作り出されたということが何とも言えません。

このとき一番うまいとされたのは<NOみそ>だったそうです。

・秀吉は厭戦気分を高めるため城外で歌舞音曲をやらせた

戦術とはいえ、かなりの非道ですね。

・開城後、秀吉軍は生存者に食事を与えたが、消化機能がマヒしたところにいきなり大量にかきこむ者が続出。かえって死者を増やしてしまった

極度の空腹状態で一気に食事をすると時に危険――ということがあるようで鳥取城の前に攻めた三木城でも同じことをやっています。

秀吉が残酷な性格だったというよりも、まだ当時では危険性を認知していなかったのでしょう。

ただ、現実的にリスキーであることは、歴女医まり先生が次の記事で言及されておりますのでよろしければ併せてご覧ください。

鳥取の渇え殺し&三木の干し殺し人肉の恐怖~極度の空腹でメシ食うと死ぬ?

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確かに人名の損耗は避けた ただし味方に限る

これだけ詳細な記録が残っているからには、おそらく秀吉軍から城内の様子がはっきり見えていたのでしょう。

籠城していた鳥取城の人達には、そんなことしてる余裕なんてなかったはずですからね。

戦国時代とはいえ、むごいにも程があります。

もちろん秀吉サイドにとっては、こんな言い分もありますね。

「秀吉は人命を大切にしていたので、味方の損耗を避けるため、あえて時間と金をかけて兵糧攻めをした」

まぁ、現代の感覚から語っても仕方がないんですけどね。

特に中世は「敵=人外扱い」が当たり前な時代でもあり、しかも戦乱ど真ん中で大国【毛利vs織田】の争いだっただけに、血も涙もない処置は避けられなかったという事情もわかります。

それでも心情的に許しがたいのは、戦国期とはいえ、ここまで凄惨な例があまり無いからでしょうか。

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