吉川経家

鳥取城跡の麓にある吉川経家像

毛利家

秀吉に囲まれた吉川経家の凄絶籠城戦~鳥取城渇え殺しとひらがなの手紙

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
吉川経家
をクリックお願いします。

 

【鳥取城の惨状まとめ】

信長の功績を称える書として著名な『信長公記』にはこう記されています。

「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女」

「叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、日もあてられず」

もう目を伏せたくなりますが、より具体的な状況を挙げさせていただきますと。

・戦力及び労働力として重要な馬や牛を食べつくし、さらに犬猫ネズミまで食べた

当時の日本に肉食の習慣がほぼなかったことを考えると、この時点で既に相当のものです。

かつ江さんは、手にカエルを持っていましたが、入手できていたらもちろん食べていたでしょう。

・2ヶ月目には先に死んだ者をたべるようになり、そのうちまだ息のある人間も……

江戸時代の四大飢饉のように極限状態ではままあることですが、鳥取城の場合そんな状況が人為的に作り出されたということが何とも言えません。

このとき一番うまいとされたのは<NOみそ>だったそうです。

・秀吉は厭戦気分を高めるため城外で歌舞音曲をやらせた

戦術とはいえ、かなりの非道ですね。

・開城後、秀吉軍は生存者に食事を与えたが、消化機能がマヒしたところにいきなり大量にかきこむ者が続出。かえって死者を増やしてしまった

極度の空腹状態で一気に食事をすると時に危険――ということがあるようで鳥取城の前に攻めた三木城でも同じことをやっています。

秀吉が残酷な性格だったというよりも、まだ当時では危険性を認知していなかったのでしょう。

ただ、現実的にリスキーであることは、歴女医まり先生が次の記事で言及されておりますのでよろしければ併せてご覧ください。

鳥取の渇え殺し三木の干し殺し
鳥取の渇え殺しと三木の干し殺しで人肉の恐怖~人は飢えると獣になる

続きを見る

 

確かに人名の損耗は避けた ただし味方に限る

これだけ詳細な記録が残っているからには、おそらく秀吉軍から城内の様子がはっきり見えていたのでしょう。

籠城していた鳥取城の人達には、そんなことしてる余裕なんてなかったはずですからね。

戦国時代とはいえ、むごいにも程があります。

もちろん秀吉サイドにとっては、こんな言い分もありますね。

「秀吉は人命を大切にしていたので、味方の損耗を避けるため、あえて時間と金をかけて兵糧攻めをした」

まぁ、現代の感覚から語っても仕方がないんですけどね。

特に中世は「敵=人外扱い」が当たり前な時代でもあり、しかも戦乱ど真ん中で大国【毛利vs織田】の争いだっただけに、血も涙もない処置は避けられなかったという事情もわかります。

それでも心情的に許しがたいのは、戦国期とはいえ、ここまで凄惨な例があまり無いからでしょうか。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-毛利家
-

×