増田長盛

増田長盛/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

豊臣五奉行・増田長盛はどんな武将だった?内政外交に強い官吏が迎えた意外な最期

豊臣政権・五奉行の一人である増田長盛(ました ながもり)とは、一体どのような人物なのか?

昨年の大河ドラマ『どうする家康』では「外交政策に長けた人物」として紹介されましたが、実際のところ豊臣政権【五奉行】のメンバーは素性が不明だったりします。

自らも出自が高くない秀吉に見出され、武功よりも内政に長けた人物が多く、大名家で代々伝えられてきた武士のようなルーツが伝わっていないのです。

しかも豊臣政権の後に徳川時代が到来したため、ますますその歴史は埋もれがち――。

そんな状況を踏まえながら、増田長盛の生涯を振り返ってみましょう。

増田長盛/wikipediaより引用

 


28歳で羽柴秀吉に見出され

増田長盛は、生地からして複数の説があります。

・尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)

・近江国浅井郡益田村(現在の滋賀県長浜市益田町)

「増田」という地名に住んでいる人物として、天正元年(1573年)、当時28歳のときに羽柴秀吉に見出されました。

累代の家臣がいない秀吉は、目端の利く者を積極的に登用していたのです。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

当時の秀吉は長浜城主であり、長盛には200石が与えられました。

有能な家臣であれば200石は少ないのでは? と思われるかもしれませんが、長盛の能力が低いわけではありません。

彼の活躍はあくまで武功に属さない、いわば縁の下の地味な働き。

秀吉の戦術は、大軍を運用するための兵站の確保や、優れた外交手腕に定評がありますが、そうした長所を担ってきたのが長盛のような人材でした。

 


豊臣政権の外交・内政を担う

秀吉の躍進は、天正10年(1582年)に勃発した【本能寺の変】から急加速。

それに伴い、この年に奏者とされた増田長盛の活躍も見えてきます。

長盛が重用されていた証拠に、越後上杉家との外交担当という重要な役割がありました。

当時の上杉家は、謙信の死とその後の跡目争いにより弱体化の一途を辿っており、織田信長の北陸侵攻によっていよいよ絶体絶命の窮地へ追い込まれていたところです。

そんな折に起きたのが本能寺の変でした。

上杉家はここぞとばかりに、明智軍を破った秀吉に接近をはかり、敵対勢力を牽制しながらいち早く従属。

このときの外交担当者が、長盛でした。

※以下は上杉と豊臣政権の関連記事となります

上杉と秀吉の関係
なぜ上杉家は真っ先に豊臣大名となったのか~秀吉と景勝の利害は一致していた?

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秀吉のもと、重要な内政や外交を担った長盛はそれにふさわしい石高や地位を与えられます。

まず天正12年(1584年)に【小牧・長久手の戦い】に従軍したとして、2万石にまで加増。

さらに天正13年(1585年)には従五位下、右衛門尉を叙任し、秀吉が天下統一に向けて動くのにふさわしい役目を担ってゆきます。

伸びゆく豊臣政権において、知行の割り当て、取次役、土木工事など、さまざま重責をこなし、【小田原征伐】のような軍事においては、石田三成らとともに兵站を担当しています。

photo by R.FUJISE(お城野郎)

北条氏が滅んだ後は、関東大名との取次役、その後の【奥州市置】では検地を担いました。

 


文禄の役

文禄元年(1592年)に始まった【文禄の役】では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮へ渡海。

占領地統治や兵站に携わります。

このあたりが豊臣政権にとって、悪い意味でのターニングポイントに思えます。

【文禄の役】では兵站が不足し、諸将の間で不満が鬱積しました。

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用

この戦いでは西国大名から優先的に渡海することとなり、そのせいで亀裂が生じています。

一方、東国大名として肥前名護屋に留まっていたのが徳川家康

家康は、出羽大名である最上義光と話し合い、諸侯を慰撫していたと伝わります。

それまでは関東~奥羽の大名の取次や仕置を増田長盛が担ってきましたが、文禄の役による影響で断絶が始まり、その間隙を徳川家康が縫ってきたようにも見える。

そしてその最中に、ある出来事が起こります。

秀吉のもとにいた淀殿の懐妊が判明し、大坂に戻って男児を産んだのです。

二人の第一子である鶴松の死後、もはや世継ぎは望めないと思われていたにも関わらず、奇跡が起きたのでした。

 

大和国郡山城20万石を所領とする

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が、不可解な死を遂げました。

まだ若く、豊臣一族にとっては貴重な親族。そんな一門の貴公子が、自ら命を絶ったようにすら思える死です。

同年6月、その豊臣秀保が有していた大和国郡山城20万石の所領は、増田長盛に与えられました。

しかし、豊臣政権にまたも激震が走ります。

今度は秀保の実兄である豊臣秀次が、高野山で自刃したのです。

豊臣秀次/wikipediaより引用

豊臣一門の秀次は秀吉の後継者とされ、関白職を譲られていました。

秀吉の実子誕生でその地位が揺らいだと思ったのか、突如命を絶つと、激怒した秀吉は、秀次妻子の大量処刑を命じました。

【秀次事件】が起きたとき、長盛は秀次側の糾弾にまわっています。

一方で家康は、糾弾された側の救済に回りました。

その中には伊達政宗細川忠興、最上義光らが含まれ、ますます諸侯の心情は徳川に傾いていったのは明らか。

しかも、和睦が進められていた朝鮮との交渉は決裂してしまい、中断していた半島への出兵が、またしても俎上にのぼります。

そして始まったのが【慶長の役】。

長盛は、慶長4年(1599年)の総攻撃の大将として、福島正則・石田三成とともに名があげられていました。

しかし、その前年の慶長3年(1598年)に秀吉が没し、実現はしてしません。

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