春日局/wikipediaより引用

徳川家

家光の実母はお江ではなく春日局だった?ミネルヴァ日本評伝選『春日局』が濃厚だ

1643年10月26日(寛永20年9月14日)は春日局の命日です。

徳川家光の乳母として忠誠心と献身でよく知られた才女であり、大河ドラマはじめ大奥ものでもよく取り上げられる女性ですね。

かように歴史ファンなら当たり前の存在でありますが、冷静に考えてみれば乳母でそこまで知名度が高いというのは凄いこと。

他に、歴史的な乳母の名前を挙げようとしても、なかなか思いつかないのではないでしょうか。

まさに彼女こそが、日本史上最強の乳母かもしれず、そんな春日局について最もよく知られているのが、家光の母であり徳川秀忠の正室である“お江”との激しい対立です。

 

家光vs忠長のカギを握る春日局

二人の確執の原因は、それぞれが支持した徳川家光と弟・徳川忠長が、将軍の座をかけて争ったことが原因でした。

近年ではこの争いを背景とした、山田風太郎の『甲賀忍法帖』を漫画・アニメ化した『バジリスク』がヒットしていますね。

さて、「家光&春日局 vs 忠長&お江」の構造ですが、何か引っかかりを覚えませんか。

家光も秀長も、生母は同じ、正室であるお江です。

家光が暗愚だとされていますが、成長後の家光は三代目として政治力を発揮しています。

江戸幕府将軍としては賢明な部類に入るでしょう。

一方で忠長は成長後、漫画『シグルイ』(原作:南條範夫・作画:山口貴由→amazon)で誇張されたような“残酷さ”を発揮するようになるわけです。

そうなると、秀忠とお江の偏愛が忠長を世継ぎに据えるための数少ない根拠となるわけですが……どうにも弱い気がします。

生母が同じで長幼の序がある以上、そもそもこの対立構造は本来生じないはず。

しかしこの兄弟が争い、敗れた側の弟・忠長が若くして自害するという結末は史実なのです。

何故この兄弟は対立したのか。

その鍵を握る秘密に迫ったのが、本書『春日局(ミネルヴァ日本評伝選:福田千鶴)』(→amazon)です。

 

家光出生の秘密

そもそも徳川家光は本当に正室であるお江の子であったのか——。

本作が正面切って取り上げているのがこの問題です。

徳川秀忠とお江夫妻の間に生まれた子供の数は、11年間で8人。

徳川秀忠/Wikipediaより引用

言われてみればあまりにペースが速い。

著者は他に、

・他の子との妊娠間隔

・お江の生前は家光の誕生日が伏せられていたこと

・幼少期は忠長の方が家光よりも格上の小姓がついていたこと

・お江の葬儀は家光ではなく忠長が行ったこと

・お江の死後に従一位を贈ることに否定的な公家がいたこと

……などを根拠としてあげていきます。

しかし、ここで反論したい人もいることでしょう。

「秀忠って恐妻家で側室がいないんでしょう?」

これについても本書では検討されています。

 

江戸時代にも「代理母」はいた?

側室というと、愛人をイメージする人が多いことでしょう。

綺麗に着飾らせた美女たちをずらりと並べ、花見を楽しむ豊臣秀吉

そんな姿を思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

このイメージを抱いたままでいると、歴史の本質が見えてこないこともあります。

側室とは、現代で例えるなら「代理母」のような立場の女性もいました。

正室であるからといって、必ず男児を出産できるとは限りません。そうなった場合、事前の策として正室が管理している侍女に子を産ませることもあります。

そして産まれた子は正室のものとして扱われるのです。

まさに戦国・江戸の「代理母」といったところです。

つまり秀忠とお江の子とされている中に、実際にはお江が産んでいない子が含まれているとすれば、前述の出産間隔の狭さが解決されます。例えば……。

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