戊辰戦争の時、仙台藩士として縦横無尽の活躍をした細谷十太夫直英という人物をご存じだろうか。
敗戦に次ぐ敗戦を重ね、撤退していくしかなかった佐幕派。
そんな軍中にあって、侠客や博徒、猟師や馬方といった士分以外の「衝撃隊」というゲリラ組織を率いて、戦うこと三十余戦で負けなしという、非凡な戦術の才能を発揮した男である。
新政府軍には「鴉組」として恐れられた、細谷とは一体どんな人物だったのか?
早速、見ていこう。
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細谷十太夫直英は仙台藩の武士だった
細谷の率いた衝撃隊は、漆黒の軍装と一羽の鴉を染め抜いた隊旗と共に、新政府軍に「鴉組」と呼ばれて非常に恐れられた。
「細谷鴉と十六ささげ なけりゃ官軍高枕」と世に謡われた民衆のヒーロー。
そんな細谷十太夫直英とは、どのような場所で育ったのか。
細谷の家は、伊達家第十七代当主・伊達政宗の時代から五十石で召し抱えられ、代々伊達家に仕えてきた下級武士の家柄であった。
1839年(天保十一年)、細谷家の長男として誕生した十太夫は、幼い頃から剛毅果断で剣槍弓銃などの諸芸に通じ、特に鉄砲術を得意としたという。
父母を早くに亡くしたため、元服の年まで寺小姓に出され、寺で習う事ができる読み書き、簡単な算盤などの教育以外は受けられなかったと言われている十太夫。
しかし、そのような暮らしの中でもいつの頃からか林子平を敬愛し、その著書である『海国兵談』を愛読するといった一面もあった。
林子平は、江戸三奇人の一人とされた仙台藩士で、海に囲まれた日本の海防の重要性を説き、それが受け入れられずに蟄居の身となった人物だ。
十六となった十太夫は元服して名を直英と改め、細谷の家を継ぐ。
めでたく仙台藩のお抱え武士の一人となることもでき(当時は元服しても一生浪人のままという者もいた)、戊辰戦争の少し前までの期間は比較的平和に武士兼役人の務めをこなしていたという。
伊達藩の隠密となって諸国を渡り歩く
普請方役人であった時などは私財を投じて人足達をねぎらい、心服した人足達が細谷のためにと一所懸命働いたため、他の役人の倍程の業績を挙げたりもしている。
このまま行けばオッチャン達に愛される良い現場監督になったであろう。
しかし時代は列強からの開国要求を受けての日米修好通商条約締結、桜田門外の変、大政奉還と不穏な方へと動いて行く。
その波は仙台にも押し寄せてきた。
普請方、鋳銭方などの役人をしていた細谷も、時代の趨勢から近隣の藩の情勢を偵察する軍事方探偵周旋方、平たく言うと隠密として米沢、庄内、相馬などの諸藩を渡り歩くようになる。
旅籠屋の下男や刈田郡名産「孫太郎虫」(川虫の一種)売り、女郎屋の妓夫太郎など、時により様々な姿に変装して潜伏。
このときに各地の侠客や雲助、博徒などと交わったことが後の「衝撃隊」を結成するための顔繋ぎとなった。
1868年(慶応4年)のこと。
生糸商の手代として二本松藩に潜入した細谷は、五月一日に勃発した【白河城の戦い】を目の当たりにして、いよいよ戊辰の戦いに身を投じる事になる。
隠密の仕事を放り出し、須賀川(福島県)の女郎屋の店先に「仙台藩細谷十太夫本陣」と張り出し兵を募集。
名のある侠客や博徒、猟師、馬方などが続々と参加し、最大時は100名を超える集団となった。
世に「鴉組」と呼ばれた衝撃隊、三十余戦の快進撃の始まり、である――。
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