戦国時代のみならず日本史を通じて最も人気がある織田信長――。
そのご子孫は、大名家として2つの家(天童藩・柏原藩)が江戸時代を通じて存続しており、明治時代以降は華族となるなど“軌跡”はハッキリしている。
しかし現代では「織田」という姓と「信」という名を持っているだけで、信長とのつながりを証明できなくても(家系図が途中吹っ飛んでいる)、子孫として活躍できてしまう?
そう、元フィギュアスケーターの織田信成さんである。
誰かの子孫を名乗るのであれば、本来、名乗り出たほうが「正しい子孫である」ことを示さなければならないはず。
なぜなら「絶対に子孫ではない」とは誰にも証明できないものだから。
極端な話、欧米やアフリカ、オセアニアなどから信長の子孫を名乗る者が現れても、その可能性を0%だと断じることはできない。
だからこそ、名乗り出た者が証明すべきでは……と思っていたら『週刊朝日』(→amazon)に本物の信長直系ご子孫が登場し、上品かつ結構ずばりと信成さんについて言及していた。
要点をまとめておこう。
※TOP画像
(左)織田信成氏の書籍『フィギュアほど泣けるスポーツはない!』(→amazon)
(右)織田信長イラスト(画・富永商太)
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18代織田家当主・織田信孝さん
週刊朝日に登場したのは織田信孝さん。
織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)の血を引く丹波柏原織田家の18代当主である。
次の19代当主となる息子の名前に「信」の字を使わなかったことで話題となった人物だ。
◆織田家当主 織田家の400年の伝統を破り、息子の名に「信」をつけず(週刊朝日)(→link)
信孝さんは、もともと学習院を出た御曹司ながら、その後は様々な職を経て現在フリーライターという「殿様」としては破天荒な御方。
それだけに「信」の字を捨てるという、ある意味、歴史的な決断を下せたのだろう。
ちなみに「織田信孝」という名前は、織田信長の息子(三男)で完全に同姓同名の人物がいる。
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その信孝さんが週刊朝日の連載「子孫が語る」で、上品なタッチながらもなかなか痛烈なコラムを寄せていた。
信成さんのことを「まったく知らなかった」
「信成君がメダルを取れなかった理由」というテーマのそのコラム。
まず「信成さんは信長の子孫なのか?」について、
「結論から言うと、私の家と彼の家はまったく関係がないし、私は彼についてまったく知らなかった」
「(信成さんが主張する信長7男の末えいで江戸時代は旗本高家だったとのことについて)途中の何代かが不明だとも聞いたが、私にはその真偽を判断することはできない」
と、やんわり「無視」を決め込む。
しかし、本当に信長の子孫だとしたら「考えられないことをやっていた」と続ける。
「私の目から見て、やらないほうがよかったと思う企画もある。バンクーバー五輪前の本能寺からの“出陣”である。信長が天下統一寸前に挫折した場所が、これから勝負に向かうときに幸運を呼ぶとはとても思えなかった。」
確かに信長が明智光秀に殺された本能寺ほど、織田家にとって縁起の悪い場所はない(ただし当時と今では場所は違う)。
それを大事な五輪前に持ってくるなんて……企画した代理店やテレビ局なども悪いが、一番考えねばならないのは出場する本人であろう。
『本当に子孫であるなら、出演を断るなり、場所を変えるなりすべきだったのでは?』という思いが、信孝氏の言葉の行間から浮かんできそうだ。そして……。
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