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【家康を接待した信長御膳】
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家康は素直に喜べたのか? むしろプレッシャーでは?
そして何より、この御膳はストーリーをいただくメニューでもあります。
信長と家康の“勢力圏”から選りすぐった食材、心尽くしの工夫。
ふるまう信長、ふるまわれる家康。
彼らは何を思い食したのか?
想像力こそこのメニューにおける最高のスパイスになるはずです。
これは私の勝手な妄想ですが、家康は素直に「なんて素晴らしい食事なんだ。信長さん、ありがとう!」と思えたのだろうか?と、いささか不安に感じました。
なんせ相手は信長さん。その全力のおもてなしですから、口に入れる方のプレッシャーも尋常ではございません。
「これだけもてなしたからにはもっと働けという意味かもしれない」
そんな疑心暗鬼もあったかもしれません。庶民の下衆の勘繰りですみません。
それより何より、食材が各地から届き、遅滞なく調理されているということ。
これが既に権威です。
冷蔵庫もない、運送トラックも高速道路もない、そんな時代では新鮮な食材を運ばせ入手することこそ権力のあかしです。
これだけの食材を手に入れることができる範囲を支配下におさめている。こういう料理を他の地方大名やその使者相手にも振る舞うのですから、そうなると戦意喪失効果すら発揮しそうです。
スイーツである「羊皮餅」、これも素晴らしいと思います。
メニューに取り入れたのは女性受けという要素もあるわけですが、当時の最高級の料理を再現して、甘いものを抜かすというのは絶対にあってはいけないことだと思います。
この膳では金箔と金色の器で豪華さを演出していますが、当時の人々にとって「甘い」時点でこれはもう大変高価、食べる贅沢品であったわけです。
なんせ大半の人が、甘味といえば果物、蜂蜜を食べられる程度であった時代に、砂糖をふんだんに使った菓子がどっさりと置かれるのですからね。かなり衝撃的な状況であったハズ。
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クレオパトラのように真珠をワインに溶かして飲む必要はありません。
ただ、甘いものを並べればそれだけでもう「主催者は金がうなるほどある」とアピールできるのです。
家康は舌鼓を打ちつつも、こんな凄い食膳を用意する信長の権力を目の当たりにしたわけです。
神君伊賀越えをしながら食事を思い出す……どころじゃないか!?
この食事が、それこそ衝撃的なのは、直後に本能寺の変が起こったことでしょう。
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徳川家康は、当時最高の食、贅を味わいながら、ほどなくして絶体絶命のピンチに陥った【神君伊賀越え】をする羽目に陥るのです。
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明智光秀の軍勢、地元の野盗に怯えながら、命からがら伊賀を越えるとき、家康はこの日の食膳を思い出したのでしょうか。
ドラマ『真田丸』の内野聖陽さんが演じたように、情けないほどに逃げるのに必死で、信長の歓待など思い出すどころではなかったのでしょうか。
膨らみます。味も妄想も膨らみます。
食材の一つ一つを口元に運ぶたび、私の口内と脳内で歴史のエキスがジュワっと広がるのです。
こんなところで戦国談義に花を咲かせながらお酒を飲めたら、もう最高!
★
四世紀を経た現在、信長の家康接待は、食べるエンターテイメント、歴史学習として生まれ変わりました。
目で彩りを、舌で食感と味わいを、鼻で香りを、そして心と頭脳で歴史を楽しんでください。
箸を置いたとき、あなたと歴史の距離は食を通じて一歩近づいているはずです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)