立花宗茂

立花宗茂晩年の肖像画(左)と江戸時代に描かれた錦絵(歌川芳虎作)/wikipediaより引用

大友家

西の戦国最強と称された立花宗茂~浪人から大名へ復活した76年の生涯

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いきなり13万石の大名にレベルアップ

その後、大友宗麟の要請を受け、秀吉が九州征伐へやってくると、宗茂は豊臣軍に加わり再び活躍しました。

直接宗茂の働きを見た秀吉も大喜びし、

「宗茂は忠義も武勇も九州一よ!」

※超訳・本文は「九州の一物」

とベタ褒め。

この時点で大友家臣ではなく一国の主として認められ、筑後柳川(現・福岡県柳川市)13万石の大名に取り立てられます。

さらには一揆の鎮圧や小田原征伐でも活躍。

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すっかり気に入られて羽柴・豊臣の名乗りを許され、従五位下・侍従という官位も貰えました。

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領主としては無難にやっていたようで、領民からの信頼も上々だったためか、朝鮮の役まで彼に関する記録はそう多くありません。

そしてその朝鮮の役では、味方の救出に行って自ら刀が鞘に収まらなくなるほど奮闘し、それを伝え聞いた柳川の人々からも「鬼将軍」とまで言われたそうですが、何故か島津義弘のような悪評は立っていない様子。

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そもそも大陸側の資料に「鬼」と人名が付いた評価はないらしいので、日本の中で故意に義弘を貶めるためアレコレ言い出したのかもしれません。

話を宗茂に戻しまして、その後の大きな出来事といえばやはり関ヶ原でしょう。

 

運命の関ヶ原で大舞台に立てず

秀吉が「東の本多忠勝、西の立花宗茂」とまで評した人物です。

当然、徳川家康もその武勇を脅威と感じ、東軍へ引き入れようと画策しました。

しかし、この時点で家康は宗茂に敵視されていたようで「太閤殿下のご恩を忘れて徳川に付くなんてできません(キリッ」と断られています。

直接の交流がどれほどあったかはわかりませんが、たぶん石田三成についてもそんなに悪く思ってなかったんでしょうね。

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ただし……。
大津城という城を攻めている間に関ヶ原本戦は終わってしまい、宗茂が活躍する間もなく趨勢が決まってしまいました。

当然のことながら宗茂は納得行かず、大坂城へ。

一応西軍のトップだった毛利輝元に対して「まだやれます!」と進言しますが、もともと輝元はやる気薄でしたので無駄足になってしまいました。

こうなると家康が大喜びで処分を決めるのも当然の話で、宗茂は領地を取り上げられて浪人になってしまいます。

一時はお寺に厄介になり、家臣たちが方々で日銭を稼いで主を養っていたといいますから、涙ぐましいというか、そこまでさせるほどの人格者であったことがよくわかります。

当時のエピソードとしてこんなものがあります。

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