とにかく主役の執念がスゴイ。
なぜこれが【日本三大敵討ち※詳細は記事末】に入っていないのか?と聞きたくなるような話。
天正六年(1578年)10月22日、長連龍(ちょうつらたつ)という能登(現・石川県)の武将が織田信長に助けを求めるため、包囲されていた城を脱出しました。
ここだけなら「ふーん」って感じですが、この後のツラタツの行動が、名前の漢字どおり何だかスゲェって執念でして。
あの信長に仲裁されても断じて引かなかった執着ぶりを見せるのです。
それはまさに「仇取るために自分が死ぬ気か!」というもので、前後の事情から見てみましょう。
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長連龍の父・続連 あの謙信に攻められて
事の発端は、織田信長と上杉謙信の対立でした。
信長が石山本願寺を攻めた際、宗徒たちを徹底して処刑したため、敬虔な仏教徒でもある謙信が「毘沙門天に代わっておしおきよ!」とそれまでの方針に変えたのです。
まぁ、それはあくまで表向きの義侠心であって、実際は、謙信のご近所・越前(福井県)を信長が攻める気配を見せたのですね。
※以下は織田信長の生涯まとめ記事となります
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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謙信のいる越後から信長がいる京都に行くには、越前はもちろん加賀・能登(石川県)や越中(富山県)を通る必要があります。
連龍のいた七尾城は能登にありました。
城の主は主君・畠山春王丸。
まだ幼く、実質的に仕切っていたのは連龍の父・長続連(ちょうつぐつら)です。
謙信に攻撃された七尾城は、一旦は孤立するものの、同時期に関東で北条氏が上野(現・群馬県)に侵攻する動きを見せたこともあり、上杉軍を追い返すことに成功しました。
しかし、あっさり北条氏を破った謙信は、翌年再び七尾城へやってきます。
もう、この辺の謙信の戦巧者っぷりったら反則ですよね。
史実準拠として人気の歴史マンガ『センゴク権兵衛15巻(→amazon)』でも、
【武田と北条は同盟して、一緒に謙信と戦った方がいいんじゃない?】
なんて今川義元に言わせてましたけど。
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは
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なんか納得です……というわけで、話を七尾城へ戻しましょう。
信長への使者に出ていたときに裏切り者が
長続連はやはり籠城を選び、まずは上杉軍が諦めるのを待とうとします。
しかし、軍神相手に同じ手は二度も通用しません。
謙信は七尾城内の畠山氏の家臣である遊佐続光(ゆさつぐみつ)や温井景隆(ぬくいかげたか)らを調略し、内側から城を攻略する手を取ります。
これに応じた二人。
続連を始めとした兄や弟、甥など、主要な長一族をことごとく殺害し、上杉軍に降伏したのです。
元々この戦の前から続連は親織田派、温井達は親上杉派で対立しており、続連が急に権力を持ったため反感を持っていたということもあります。
かくして七尾城は上杉軍の手に落ち、連龍だけが生き残りました。
なぜ連龍が生き延びたのか?
というと裏切りが起きる前に七尾城内では疫病が流行り、信長へ救援を要請するため、兄・長綱連の命による使者として密かに脱出していたからです。
そのおかげで助かったのですが、これで連龍はその後の数年間、復讐の鬼と化します。
冗談抜きでこれ以外の表現が見当たらない……。
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